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くるくる回る電話をとって

くるくる寿司、という言葉がある。正式な言葉かは知らないが、うちの父がたまに使う。たとえば電話がかかってきて「久しぶりやけん、食べに行こうっち言いよーとよ。くるくる寿司」こんなかんじである。ちなみにこれを訳すと、「久しぶりだから回転寿司を食べに行こうと言っている」となる。

さらに言うなら「食べに行こうっち言いよーとよ。」の部分は、他に同行するであろう人(たとえば母とか弟など)がいれば「こちらで相談したところ食べに行こうという話になっている」ということになり、もしいなければyou&meでgoの意思を表したものになる。が、いまのところ父と二人で回転寿司に行ったことはなく、後者ということはありえない。そこで、ははん、何か集まる用があるんだな、と推察する。

ここまでにかかる会話の数、2つか3つ。「父さんです」「久しぶりやけん、食べに行こうっち言いよーとよ。くるくる寿司」「○○(弟)も来るけん」そしてあと2つか3つで通話終了。実に短いものである。

電話というのはおしなべてそうだろうが、関係性が近くなるほど省略が多くなる。父ともなれば、要件のみをいきなり話し出し、終わったらすぐに切る。会話の瞬間配達だ。外国語でかかってきた電話ならより顕著だろうが、方言での会話もまた、通話が終わったときに独特の余韻を残す。それは、会話の意味や内容よりも、相手との距離感や、そこで登場する特定の語のせいかもしれない。

たとえばこういうことがあった。お盆かお正月で、親戚が一同に集まっていたときのこと。いとこが赤ちゃんを連れて来ていた。生まれてまだ数か月の赤ちゃんはとてもかわいく、その子を囲んで、なんやかんやと世間話が始まる。そんななかで、その子の親であるいとこに、父がふとたずねた。「ぎりぎりはひとつね?」ポカンとする私。「ひとつです」即答するいとこ。寝かされた座布団の上で伸びをする赤ちゃん。その赤ちゃんをみつめる私。この子のどこにその・・・ぎりぎりが? それとも赤ちゃんではなくいとこにぎりぎりな何かが・・・?? おそるおそる疑問を口にする私「ぎりぎり?」「ひとつだって」「ふたつある子もおるけん」「いや、ぎりぎりって何?」

ぎりぎりとはつむじのことで、どうも方言らしい。その意味を知っているいとこと父の間では、「いくつ?」「ひとつ」というやりとりだけで会話が成立したが、意味を知らない私が入ると、会話不成立となった。聞き流してもいいものを、「ぎりぎり」という語の不穏さに、気になって突っ込んでしまった。それが、ことの次第である。

その日から十余年。「ぎりぎり」という語をつむじという意味で使用したことは一度もない。つむじがいくつあるかなんて正直どうでもいいし、不用意に聞いたら怒られそうだ。さらに言えば、ぎりぎり=つむじという意味を知っている人は知らない人に比べておそらくとても少ない。会話を想像してみる。「そういえば」「何?」「つむじってぎりぎりとも言うらしいよ」「へー」会話終了である。

そうして使われないまま沈む記憶の底で語は冷凍パックされる。地元を離れ方言をあまり話さない生活をしている私のところに、ある日電話がかかって来る。受話器を耳にあてると、知らない男の声。「ぎりぎりはひとつか?」「ひ、ひとつです」「よし」電話は切れる。

そんな想像をするのは、楽しい。語の冷凍パックは、方言にかぎらず、同級生間とか、親しい友人間、かつての恋人間でも起こる。当時はよく使っていた言葉だけれど今は全く使う機会のない語。あまり口に出したことはないけれどひどく記憶に残っている語。その語が独自の語であればあるほど、そこには独特の関係性が居座っていて、何らかのきっかけで語と一緒に解凍されてしまう。ちょっとオレオレ詐欺みたいで、危ない。語の冷凍パックは、危険である。過去と今とを、ぱっとつないでしまう。もしかしてすべての関係性は危険なのかもしれない。話していたのが父だったかそれとも知らない男だったのか、もちろん判別できるつもりである。それなのに、そのどちらであっても『ぎりぎり』という符牒を介することで「いくつ?」「ひとつ」という会話が成立してしまうのだ。怖いなあ。まるで関係性のフルーツバスケットだ。気づくと知らない誰かと席を交換して会話だけが続いている。

父にとって、すべての回転寿司は「くるくる寿司」である。スシローもくら寿司も、元禄寿司も小僧寿司も、くるくる回っていれば、くるくる寿司。じつにわかりやすい。しかも何かしらかわいい響きがある。ひらがなの繰り返し+名詞がかわいさを生んでいるのだろうか。そういえばさくさくぱんだというお菓子があるなと思い、他にそういう言葉がないか探してみたら、あった。「らくらくホン」!



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