普通の特別な男の子が好きになるような普通の特別な女の子になりたかった。
二外6単位が可という取り返しのつかない事態が起こっており辛い。えぐじっとです。それから自分がなんで東大に来たのか、ぐるぐるぐるぐる考えているうちに、なんだか泣いちゃったのでその話を書きたい。
共感いただければ幸いです。
私は東京の弥⽣で⽣まれた。2 歳の時に千葉県の松⼾に引っ越した。松⼾は江⼾川を挟んで東京と接している千葉の⼀地域で、典型的なベットタウンだった。東京に働きに出ているお⽗さんと専業主婦の(あるいは少しだけ副業をしている)お⺟さん、⼦供が1、2⼈という家庭がとても多かったように感じる。こんな比較的均質な環境の中で私は⼩学校に通った。私は少し変わった⼦だった。我が家の場合はフリーランスで翻訳をする⺟が⼤⿊柱であった。私が⽣まれてからは、⽗も⺟も外に働きに⾏っていない。それが普通だと思っていた。さらに、後から判明したことだけれど、私は軽度のADHD だった。⼩学校⼀年⽣の時は、遊びに夢中になるあまり休み時間が終わっても気づかず、授業にたびたび遅れては教室から締め出された。忘れ物もとても多かったし、気になるものがあると道路の真ん中でしゃがみ込んで動かなくなってしまう⼦供だった。友達と遊ぶことは好きだったが、周囲のみんなと同じものに関⼼を向け、「空気」を読んで、同じように⾏動することが苦⼿だった。様々に変わった⼦の多い環境であったなら、それでも問題はなかったかもしれないが、残念なことに均質的な環境であったことが災いしたのだろう、私は6年間しつこくいじめられた。
今思うとこれが、全ての始まりだったのだろう。
私は父は京大、母は東大という、イギリスで言ったら「高学歴ヒッピーのカップル」でした。二人とも選挙権をきちんと行使し、どんな社会問題に関してもそれなりに偏らない左寄りの思想がある両親だ。3歳の頃から、両親と一緒に日曜の朝はサンデーモーニングを見ていた、と言えば、分かる人にはどんな家庭だか分かるんじゃないだろうか。
私の行動のあまりの奇妙さをみて、なんらかの障害があるだろうことを母は診断がつく前から察していたらしい。私が一人でも生きていけるように、彼女は私に直々に勉強を教えてくれた。学童保育が終わってしまう小学校三年生に、受験とかいう事とは一切関係なく、母がいい塾だと思ったSAPIXに入れてもらった。
勉強するのは私にとって楽しい事だった。
そうして日本一の中高一貫の女子校に入学した。母は私を中学受験させる気は当初はなかったのだが、学校で虐められているなら、公立の中学は苦しいだろう、どうせ行くんだったら、いいとこの方が楽しいだろう、と言って勉強を一生懸命教えてくれた。赤本の算数の問題を解くときに、いつもxとyを出してきて大変だった記憶がある。
中学・高校自体は楽しかった。けれど、その時期は私にとって苦難と挫折の連続だった。中学2年でレイプされた。中学3年はその後遺症でほぼ潰した。高校1年は多分自分の中の女性性を否定しようと必死だった。髪を短くした。バンドでは男性ボーカルの曲ばかり歌っていた。「キラキラJK」がすごく嫌いだった。高2でやっと調子が戻ってきて勉強に恋に部活にと打ち込み始めたときに謎の病気が私を襲った。まだ精神的にそこまで本調子じゃなかったのだろう、高2の前半はカフェインとアスピリンのODまでして自分を追い詰め過ぎた。(でも正直この時が一番楽しかった)高3はまあまあ遊んで安定していたものの受験直前にまた入院する羽目になった。
それでも私は東大に受かった。
もちろん、これは私一人の力じゃない。私に愛を注いでくれた友人たち、塾・学校の先生、何より両親の助力は大きい。
でもこの学歴という肩書は、それなりに私の能力の高さを示すものだ。私はADHDで、ある側面において人より劣っているから、それを補って余りあるくらいの能力が欲しかったし、両親(特に母)も学力や能力以外の方法を提示してはくれなかった。勉強はもちろんだけど、私は綺麗な絵も描けるし、ギターも弾ける。社会的に見てかなりの「ハイスペ」だ。
だけど、高校時代、それじゃ敵わないものがあることを知った。
私をレイプした男の子のことが私は好きだった。(詳細は下にリンクを貼る私の記事を参考にしてほしい)でもその男の子は結局、私よりもずっと「今風」な感じの子とばかり付き合っていた。(もっとも彼はメンヘラ過ぎたので付き合ってもすぐ破局していた。)
私は「空気が読めて」「男に媚びることのできる」「今風の女の子」には決してなれなかった。
高校の時もそのことを思い知らされた。高校の時に塾にとても好きだった男の子がいた。(A君とでもしよう。)彼は「普通の特別な男の子」だった。ガキ大将→男子校の愛されハッピーポンコツで人間関係にあんまり苦労してない子だった。
勉強量は少ないけど、実は驚くぐらい地頭がよかった。多分小学校の時とか相当の切れ者だったんじゃないかと思う。(鉄緑という環境でそれはあまり目立って見えなかったけど)
あと人に甘えるのがとっても上手だった。人の好意を嗅ぎ分けるのが上手だった。どこまでなら頼っていいのか、どうしたら頼らせてもらえるのか、そういうことが分かる、まさに「空気の読める子」だった。
一方私はすでにその時、変人として鉄緑会で名を馳せ、努力量で無理矢理成績を取り、かといってガリ勉ではない、敵も味方も同数いる、目立ってうざいけど面白い奴、だった。
私は「普通」にはなれなかった。「空気」は私にとっていつまで経っても透明で読めないものだった。
こういう風な生き方は正直しんどい。成績が下がればただのチャランポランで、周りからの評価は下がる。周りからの評価が下がったくらいで何も出来なくなるほど私はヤワじゃなかったけど、それでも思春期の女の子にとって周りからの評価は一大事だった。
A君にはずっと好きだと言い続けて、振られ続けていた。
正直、かなりめんどくさかっただろうと思うけれど、それでもそばに置いてくれた。喧嘩することもあったし、お互いのメンタルを殴るようなこともあったし、みっともない傷の舐め合いも馴れ合いもしたけど、彼は理由を聞いたらきちんと答えてくれるタイプの人だった。そういうところも好きだった。彼とはいまだにいい友達である。
今思うと、私が彼に抱いていた感情は「恋心」だけでなくて、「嫉妬」と「羨望」だったのかもしれない。
好きと言い続けた何回目かの時、
「いや〜だから何度も言ってるけど、お前は絶対にないなあ〜、俺が好きなのは一見普通なんだけど特別な女の子だから」
みたいなことを言われた。
「じゃあどうやって『普通の特別な女の子』になればいい?」
「お前には無理だよ。」
彼は笑いながら言った。
「それに俺の好きな女の子、可愛いし特別だし普通だけど大体つまんないやつだから、俺はお前が『普通の特別な女の子』になったら悲しいなあ」
それは知っていた。
多分、私は「普通の特別な女の子」をどこか蔑んでいた。「空気が読めて」「男に媚びることのできる」「今風の女の子」をきっと私は尊敬しない。きっと、今の自分が仮にそんな風になってしまったら、私は私を許せない。自分が高い教育を受けて、ノブレスオブリージュは当然果たすべきもの、人間は努力してなんぼ、他人には優しくありなさい、そういう風に教育されてきたことを、私は後悔してはいない。むしろ誇らしく思っているくらいだ。でも、それと同時に私は、この価値観と教育から離れて自由に生きられなくなった。それなりに高い教育を得て、より広い世界を見れるようになった時、見えてしまったものから目を逸らして生きることは、私にはできなかった。上手に程よく利己的に生きられない。もうそんな価値観を持ってしまったことがしんどかった。
女性の社会進出が進んでいるとはいえ、いまだに多くの女性が結婚して「ママ」になって、綺麗に着飾って、旦那をそばで支えて一生を終える。(もちろんそうじゃない人もたくさんいるが)
そうなってみたかった。
いや、違うのだ。何の抵抗もなくそうなってしまえるような、そういう人生を歩んでみたかったのだ。
小中高と特に虐められることも毒親に毒されることもなく過ごし、MARCHぐらいのそれなりの大学に通い、新卒でそれなりの会社の受付とか事務にでもなって、30手前で年収500〜700万位の旦那を見つけ寿退社し、1、2人の子供を生んで、旦那を支えながら死んでいく、そういう風に当たり前のように語られる、かつての女性のテンプレの人生設計通りに生きることが、どれほど難しいことか。
「空気が読めて」「男に媚びることのできる」「今風の女の子」になれていたら、今までどれだけ傷付かずに済んだんだろう。
どれだけ無邪気に生きて来れたんだろう。
こういう「普通の特別な女の子」になる能力も、なってもいいと思える価値観も持ちあわせていない、私は今日もしんどい生き方しか選択できなくて不自由です。
でも今までの人生を嘆いてもしょうがないですね、終わったことは忘れて、気をとりなおして、Aセメは優上を空からたくさん降らしたいと思います。
以上、駄文でしたが読んで下さりありがとうございました。書き散らしたら元気出ました。
以前書いたレイプのお話↓
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