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読書・困難・読書・困難というサイクル

幻冬舎 社長 見城徹氏の「読書という荒野」を読みました。「読書とは何か」を圧倒的な熱量で語り尽くした人生訓です。

【はじめに】を読むだけでも、読書の価値が伝わってきます。
ちなみに、はじめにのタイトルは『読書とは「何が書かれているか」ではなく「自分がどう感じるか」』です。

僕が考える読書とは、実生活では経験できない「別の世界」の経験をし、他者への想像力を磨
くことだ。
重要なのは、「何が書かれているか」ではなく、「自分がどう感じるか」なのである。

本を読むことは単に知識を得ることではない。
体感するものだという事なのでしょう。

読書は無数の人生を体感すること。
主人公に心を通わせ、他者への想像力を磨く。
そうすることで社会のなかでの自分を客観的に見ることができる。 
地道な読書は人間の成長には不可欠だと訴えかけてきます。

誰もが苛酷な人生を送れるものではない。
だからこそ読書体験によって多様な人間、多様な人生を追体験し、人間や社会に対する洞察力を手に入れるべきなのだ。

先日のnoteで山口周さんの著書に触れ、普通の人が哲学を学ぶ意味について考えました。
今回は普通の人が「読書」をする意義について考えさせられます。
読書を通じて普通の一生で経験できないことを学ぶつもりで向き合えば、何かが大きく変わるのでしょう。

こんな興味深い言葉がありました。

僕はドストエフスキー体験があるかどうかが、人間を分けると考えている。

ある本を読んでいるかいないかで、人間性に違いがでる。ちょっと「ドストエフスキー体験」したくなります。

親切にも、ドストエフスキーを読む際のアドバイスも頂けます。

読書初心者は、全部を理解しようと思わなくてもいい。それでもページをめくるだけで、その物語に通底するメッセージを感覚として味わうことはできる。
読書を通じて感じたことを、自分の心のなかに蓄積していけばいい。それはいずれ、糠床のように熟成され、思考となって表面に出現してくるだろう。

見城氏は猛烈な量の読書をされたそうです。
著書でも読んできた本の軌跡が語られます。
これらを読むと、人が「どんな本を読んできたのか」はその人が「どんな人間でありたいのか」という苦悩を映し出しているように感じました。
人生と読書が密接に関わり合っています。

見城氏は困難に陥った時に、孤独と不安を読書によって埋めようとしてきたと言います。

思えば僕が本を熱心に読むのは、何らかの困難に陥ったときだ。鶏が先か、卵が先かわからないように、困難を経験したから読書をするのか、読書をするから困難を乗り切れるのかわからないが、読書・困難・読書・困難というサイクルが僕の人生においてずっと続いてきた。だから、困難と読書は不可分の関係にある。
困難に陥ったときには、人は藁にもすがろうとする。そのときに心のよすがをどこから得るかといえば、やはり読書しかない。
困難を突破する答えは、スマートフォンで検索すると出てくるように錯覚しがちだ。しかしそうして出てきた答えが、自分の人生を前に進めることはない。
一心不乱に本を読み、自分の情念に耳を澄ます時期は、必ず自分の財産になる。
だから、手軽に情報が取れるようになっただけになおさら、意識して読書の時間を捻出すべきだと僕は考えている。

困難と孤独と読書の関係性。
「読書・困難・読書・困難というサイクル」という言葉がとても沁みました。(なんかツボ)
困難なとき、本読もう。

最後に、「認識者」と「実践者」というキーワードが出てくるのですが、私はこれが一番強いインパクトを受けました。

1987年にフランスで公開された『ベルリン・天使の詩』という映画になぞらえて説明がなされます。私もこの映画を見たので、見城氏のメッセージが鮮明に伝わってきました。

この作品では、天使は「認識者」、人間は「実践者」として描かれます。
主人公の天使は「認識者」として、生を営む人間を見守る立場。「認識者」でいる限りは永遠の生を保証され、ベルリンの人々の喜びと悲しみを傍観し続けます。しかし主人公は、やがて一人の人間に恋をし、地上に降ります。すると「実践者」の立場に変わります。実践者の立場は、辛く、苦しいものです。

この物語を踏まえて、見城氏はこう言います。

人間は、認識者から実践者になることで真に成熟し、人生を生き始めることができる。

しかしながら世の中には、認識者にすらなれない人間が多いことも指摘されます。

「認識者」という土台なくして、良き実践者になることは絶対に不可能だ。優れた認識者でなければ、優れた実践者にはなれない。そして認識者になるためには、読書体験を重ねることが不可欠だ。

読書によって他者への想像力や生きるための教養を磨き、まずは認識者になる。つまり世の中の事象と原理を理解する。その上で、覚悟を決めて実践者になる。

なるほど、と思いました。

認識者でいるうちは理想や夢や希望を語っていれば、それでいい。しかし、読書で得た認識者への道筋は、矛盾や葛藤をアウフヘーベンしなくては意味がない。それが「生きる」ということだ。
認識者から実践者へ。天使から人間へ。読書から始まった長大な旅は、認識者を経て、人間へとジャンプする。共同体のルールを突破して個体の掟で現実を切り開く、地獄の前進へ。血を流し、風圧に耐えながら、自己実現の荒野へ。

私は読書にのめり込んだ時に、読書をすることは孤独なもので、自分が現実から少しずつ離れてしまう‥そんな不安を持ったことがあります。
見城氏の仰る「天使」「認識者」という観点からすれば、その感覚はある意味合っていたのかもしれません。そこで読書をやめずに、「人間」にジャンプするまで続ける必要があったのでしょう。

自分自身にとっての「読書」の意味合いが大きく揺さぶられました。

熱い一冊でした。

お読みいただきありがとうございました。



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