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偶然の繋がりがおもしろい

複数の本を読んでいると、偶然の繋がりに出会えることがある。それが結構嬉しかったりする。

この間、マクルーハン の「メディアはマッサージである」を読んで、次に山口周さんの「読書を仕事につなげる技術」を読んでみたら、偶然繋がる箇所があった。ちょっと嬉しくなったので引用させてください。

読書術と聞けば、私たちはすぐに多数の本を効率的にさばくような技術を期待してしまいがちですが、そのような読書からは本当の知的体力はつくられないというのが筆者の考え方です。
アラン・ケイは、このパーソナルコンピューターという概念に行き着く契機として、ある1冊の本を挙げています。その1冊の本とはマーシャル・マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』です。
恐ろしく難解、というよりも不可解な本で、筆者自身も何度か挑戦したものの、率直に言って何が言いたいのか、何を言おうとしているのかよくわからずに挫折したままになっているのですが、アラン・ケイはこの難解な本を他になにもせずに半年間ひたすら何度も読み返し、「コンピューターはやがて計算機というよりもメディアに近いものになる」という天啓を得たと述懐しています。
このエピソードは知的生産というものと深い読書の関係を示す良い事例だと筆者には思われるのです。

このエピソードはとても興味深かった。先に自分のなかでマクルーハン に対して感じるところがあったので(下記のnoteです)、興味がより強まった。こういう偶然の繋がりは、考えや記憶を強化してくれる。

ふと気になったのが、山口周さんが『グーテンベルグの銀河系』を何を言おうとしているかわからず挫折したままになっていると仰っていること。

この本では、山口さんの読書におけるご自身の失敗やかつての虚栄心なども色々明かされている。
ただ正しい読書法を伝授するだけではない。
そこがミソなのかな、と思った。
人のウェットな部分を見せられると、読み手は親近感を感じる。肩の力が抜ける。
そうすると書き手の話を受け入れる心づもりが自然とできていく。
そういう意味で、失敗を語ることは旨味があるのかななんて思ったりした。

こんなこともおっしゃっていた。
なんだか励まされる思いだ。

本を読んでいてどうも内容がしっくりこない、あるいはわからないと思うようであれば、それは決してあなたの責任ではありません。
では著者の責任なのかというとそうとも言えません。本を読むというのは一種の対話ですから、読んでわからないということは「言葉が通じない」ということです。
言葉が通じない相手とは話してもムダなので、あなた自身が変化して、言葉が通じるようになったときに、再び読めばいいのです。

読んでいただきありがとうございます。

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