見出し画像

自己と社会が対話する学び〜自己責任と宿命感を超えて〜

これまで3回にわたって、現代の生きづらさのメカニズムを「宿命感」という概念を用いて探っていきました。

前回の記事はこちら↓

今回はこの宿命感のメカニズム、問題点を踏まえた上でいかにして宿命感を打破していくのか、その教育のあり方に関して描写していきたいと思います。

0、「宿命感」が形成されるプロセスの再確認

前々回の投稿で描写した、「宿命感」の内面化のプロセスは、

「宿命」的世界観の内面化→自己効力感の消失→批判的思考の消失→社会を私と結びつけられない→個人的なことを個人的なこととしてしか抱え込まざるをえない→違和感を意識することの意義の消失→違和感を身体が感じることを隔絶する

というプロセスをたどっていった。

結果として、その個人に問題が発生した際に個人の問題として抱え込まざるをえない状況が発生することに問題を指摘していった。その上で、この状態の乗り越えを行うには私は上記プロセスの逆を辿っていくことが必要ではないかと考えている。

1、違和感、疑問への感覚のある身体

まずは身体の感覚を取り戻すところから始まる。現代のPDCA的世界(今ここを振り返るのではなく、常に次の成果に向けて動く世界観)の中では、自分が今何を感じているのか、それを私がどう捉えどう考えるのか、そうした自分の感覚を大切にできる時間を取ることは容易ではない。また、そうした世界を共有する空間で感じたことという個人的なことを語れば「そんなことよりも成果を出せ」と言われる可能性が高いだろう。それゆえ、「違和感が何となくあるけどまあいいや」となりがちである。

そうではないあり方を作るために、まずは私の感覚に対して、過去・現在・未来で何を感じるのか、感じてきたのかじっくり注意を向ける時間を取っていく。そうすることで、私という存在として抱える違和感の在り処に感覚的に気づいていけるようになる。

2、個人的なことを個人的な言葉として語る

だが、こうしたプロセスを一人で行うことは非常に難しい。違和感を感じていたとしても、「どうせ〇〇だろう」とすぐに結論付けてしまうだろう。ただ感じるということに慣れていない状態で、私の感覚に注意を向け続けることは非常に心身を消耗するからだ。結論をつけないということは「わからないままであり続ける」ということだ。感覚に目を向ける時、非常にドロドロした気持ち、悲しい気持ち、怒り、喜びなどに出くわすことになる。感覚に言葉を当てることができればまだ良いが、あてがう言葉が見つからない可能性もある。それゆえ、そうした言葉になりえない感覚を一人で抱えるという行為はとてもしんどいのとなる。

だからこそ、このプロセスにおいては他者の存在が重要になる。自分では抱えきれない何かを他者に語り、他者とともに考えることでそのしんどさを共に抱えることができるからだ。

一方でこの他者に語る、という行為もとても勇気がいる行為になる。普段、私たちは私そのものではなく、社会や他者に受け入れられるであろう仮面を身にまとった上で人とコミュニケーションをとる。しかし、この感覚そのもに仮面をつけることはできない。しかも私自身も仮面の私に慣れている今、私自身も“わからない”私を他者に開示することになる。それは非常に無防備な私であり、それが否定されようものなら傷つくという言葉で言い表せないほどの傷を受ける可能性がある。それゆえ、このプロセスには非常に勇気がいることになる。

だからこそ、この段階においては他者とのつながりのデザインを徹底することが重要となる。判断するのではなく受け止める、アドバイスではなくその人の言葉を受けて再び私が感じたことを言葉で返す、“わからない”ことをわからないままで一緒に感じながら考えていく、そうした場を創ることでじっくりと私の感覚に言葉を探り当てていくことができるようになる。

3、個人的なことを社会的なこととして結びつける

私の感じた違和感が言葉になったのならば、次にその言葉を社会の言葉と結びつけていくプロセスを辿っていく。それは、学問かもしれない、他者の言葉や生き様かもしれない、はたまた社会課題の事例かもしれない。私の抱えるこの違和感が、哲学でいうと、経済学でいうと、社会学でいうと、政治学でいうと、心理学でいうと、様々な学問に依拠すると何になるのか、私的な言葉を社会的な言葉に転換し、その言葉を手掛かりに自分の抱えていた課題の社会的構造を明らかにしていく。やがて、私の抱えていた違和感は決して私が問題だから生まれたのではなく、社会の構造的問題との相互作用の中で産まれ出たものなのだと実感を持つことができるようになる。

4、私事が社会事になった私の視点で世界を見る

そうやって私事を社会事になった視点で世界を見つめた時、きっと世界の見え方は違うだろう。今回取り上げた事例だけではなく、他の時にも感じていた違和感が実は同じ構造の中で起こっていたことに気づくかもしれない。関係ないと思っていた他人の問題が実は私と同じ問題だと気づくかもしれない。

一つ言えることは、私は問題を抱えるどうしようもない私ではなく、問題を他者とともに見つめ、他者とともに関わっていく主人公として、あり方がきっと変わっていくということだ。

それは私の問題を他責にする営みというわけではない。私が私だけで抱えていた問題を他者と分かち合い、社会と分かち合いながら等身大の私として抱えたいものを見極めていくプロセスである。

5、私が私として社会に関わる

そうして実際に半歩、私として社会に関わってみる。それは何かイベントに参加することかもしれない、発信してみることかもしれない、小さくイベントをやってみることかもしれない。これからその問題と長い人生の旅の中で付き合っていく時に私はどうありたいのか、少しずつ歩んで、歩んでは考え、また歩むことを繰り返していく。半歩が一歩になり、その一歩一歩が、やがては道を切り開いていくだろう。

6、私が社会を“変える”

結果として、私のあり方を創り変えながら、社会もその有り様を変えていくだろう。

社会を“変える”。

その言葉はとても大きな言葉に聞こえるかもしれない。けれども、それは決して自己責任で社会から離れて生きていくわけでも、起業家になって社会を変革しに行くことが求められるわけではない。

湖に投げた小石が波紋を広げていくように。私の有り様が創り変わることで、自分の周囲が変わり、やがては社会も創り変わっていく。波紋を投げかけるときには水があるように、そこには他者がいる。違和感を言葉にし、言葉を問いにして投げかけることで、他者とそのしんどさを、そして楽しさを分かち合いながら、変わったり変わらなかったりする社会に一喜一憂しながら、この世界の片隅を少し気を楽にしながら生きていくのである。

ここまで述べてきたことが私の創りたい学びのあり方だ。この学びが社会に広まった時に半歩世界が善くなっていることを願い、私の半歩を歩んでいきたいと思う。

それでは、次回で今回の宿命感の話を一旦閉じたいと思う。最後は、この学びが広まった先にある世界の有り様について述べていきたい。教育のあり方を変えるということは世界そのものを変えていく営みになるということなのだから。


いただいたサポートは「katharsis」の活動資金として活用することで、誰もが「感性を解き放てる瞬間」を創り出すことに貢献していきます。ご支援のほどどうかよろしくお願いいたします。