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「悔しい思い」は次への自分を支えてくれるエネルギー

勝者の笑顔よりも、敗者の涙。
私は昔から敗者に目が行く。

私は、過去にオリンピックや国際大会の現場取材で、アスリートの生々しい「悔しさ」を幾度となく目の当たりにしてきた。
もちろん片方には必ず勝者の喜びがあって、表彰台で国歌が流れて国旗が挙がる光景は、それは他国のものでも感極まるものがある。
それでも。

取材という立場を越えて胸に迫るのは、嬉し涙よりも、やっぱり悔し涙。

「悔しさ」には、はかり知れない深さ

最大限の力を発揮して、自分としては非の打ちどころのないパフォーマンスをしても、勝負の世界では必ずしも報われないこともある。
傍らで喜びに沸くライバルを見ながら、不本意な形で競技を去る、そんな選手もいた。

今でも忘れられない光景がある。
調子は悪くなかったのに代表選考に落ちた、その無念さを全身でこらえながら身を引く決意。毅然と受け答えし、時に冗談でかわしながら、会見場を去っていった某有名選手の後ろ姿。
一直線の長い通路を、ずっと向こうへ歩いて行った、遠くなっていく背中に、私も目頭が熱くなった。
さっきまであんなに躍動していた選手が…。
今でも詳細をここに記したいくらいだけど、控えておく。

私にとって取材対象の選手ではなかったけれど、他メディアがその姿をあまり報じなかったことが残念でならない。

この選手は、実力はありながら惜しい負け方をすることが多かった。
それでも腐らずにここまで食い下がった粘り強さは「悔しさ」もバネになっていたに違いない。

無念さ、悔しさはいかばかりか。彼はどこまで納得しているのだろう。
もっと言いたいこともあっただろう。どんな思いが去来しているのか。
思い残すこと、悔いはないか。

心中の想像が簡単につかない。
「潔さ」なんていうきれいな言葉だけでは片づけられない。
だからこそ、惹きつけられる。

勝利や喜びには「おめでとう」でいいけれど、「悔しさ」にはかける言葉が見つからない。

どこに悔しさを感じるか。そこに、その人らしい「こだわり」や「美学」がにじみ出る

「悔しさ」と一口に言っても、「何に悔しいのか」はとても複雑。

例えば勝負の世界では、銅メダルで嬉しいこともあれば、銀メダルで悔しがることもある。
勝敗なのか、内容なのか、ミスに対してなのか、プロセスなのか、その機微が複雑に絡んでいて、その人にとっての、道のりやこだわり、価値観など、様々な思いがつまり過ぎている。

だから、他人が簡単にわかったふりも共感した風なことも言えない。
取材者の立場だと、一番神経を使うところ。
そして、私はここが一番のキモとして捉えている。

何に悔しいと感じるか「悔しさポイント」は、人により、時による。
その人自身の生き様や美学が表れていて、実は、とても大切なポイントだと私は思っている。

とにかく勝敗にこだわっていれば、「負けた」という事実だけでも悔しいだろうし、「あの人に」負けたことが悔しいこともある。
勝敗よりも自分の達成感や自分の中の理想に重きを置いていれば、いくら相手に勝っても自分の不出来に納得いかず、悔しいこともある。

何に対して悔しいのか、その悔しさのポイントは、良し悪しではなく、
そのときのこだわりや価値観や美学を正直に物語っている。

「悔しさ」は、次へのエネルギー

私が初めて取材したアスリートは、現役引退する少し前のサッカーの北澤豪選手。
超ベテラン選手の北澤さんの言葉は、当時の私には目からウロコだった。

「フランスW杯での屈辱(直前合宿で代表から外されたこと)は、絶対に忘れないようにしている。忘れたほうがいい、という人もいるけど、あの悔しさをずっと持ち続けてきたことが、こうして自分を頑張らせている」

トップで活躍するアスリートの多くは、必ず悔しい思いをしていて、その悔しさをあえて胸に秘め続けて、エネルギーに変えている。

単に、負けたー、くやしー、と片づけてしまうのではなく、なぜ負けたのか、自分はどうして悔しいのか、その悔しさときちんと向き合っている。

アスリートに限らず、「悔しい思い」は、人を強くさせる。
「強く」という表現も語弊があるけれど、苦労知らずの順風満帆よりも、粘り強さにつながる気がする。

心折れそうなときにも踏ん張るって、そんなに簡単なことじゃないし、キレイごとだけで済まない。
使い方次第だけど、やっぱり「なにくそ魂」みたいなものも必要。

私を思い返してみると。
20代の頃に、幸運にも憧れた仕事に恵まれた一方で、理想や思いを成就できずに不本意ながらその仕事を数年で辞めた。
自発的な決断だったし、納得もしていたものの、私の中の思いは不完全燃焼で、何かに「負けた」感じもしていた。

そんな私を見ていた友人から「見返してやろうよ」と誘われ、独立起業に一歩を踏み出した。
当時は「悔しい」という明確な自覚はなかったし、敵味方の勝負をしていたわけでもなかったけれど、「見返してやろうよ」という一言が、私の背中を押した。
ということは、どこかに「悔しさ」があったんだと思う。

自分にはやり残したことがある、という思い。

今思えば、その一念が、私に粘り強さをくれ、頑張らせてくれたと思う。
しんどい仕事や気の遠くなる仕事に心折れそうになっても、いつか見返すんだ、やり残したことをやるんだ、という"根拠なき信念"が、エネルギーになって奮い立たせてくれた。

二度とあの悔しい思いはしたくない。
そういう思いもあったと思う。
憧れた仕事に就いても続けられなかったのは、若さゆえのまっすぐすぎる不器用さ。
それが仇になることも、時が経つと気づけるようになった。

自分の思いを実現するには、何でもストレートに進めればいいってもんじゃない。
時間や手間もかけて、遠回りに見えても、清濁のみ合わせることも必要。
大きな目的に向かっては、少々ムカつく相手にも頭を下げられるようになったとき、自分にちょっとだけ成長を感じた。

好きだからこそ、可能性を感じるからこそ「悔しい」

私のモットーは「好きはすべての原動力」。
好きという気持ちやワクワクの楽しさは、目線を前に前に引っ張っていってくれる。

「好き」がオモテ面なら、「悔しさ」はウラ面。

失敗したりうまく行かなったとき、「悔しい」と感じるなら、そこに可能性と価値を感じている証拠。

たとえば。
遊びで友達とのジャンケンで負けたからって、悔しいとは思わない。
ウサイン・ボルトと100m走の勝負で負けたって、悔しいなんて思わない。
(負けん気の強い人は、ボルトに負けても悔しいかも?)

つまり、どうでもいい興味がないことや、ハナっから歯が立たない勝負には、悔しささえわかないものだと思う。
「悔しい」と思っている間は、可能性を感じていて、そこに挑む価値を感じている、そんなバロメーターにもなる。

好きという「きれいなオモテ面」よりも、悔しさという「泥臭いウラ面」からの支えのほうが、粘りには効くと思う。
"レイコンマ"や"ミリ"の厳しい戦いの中では、「執念」のような思いが最後のひと踏ん張りの力になる。

アスリートが引退する際、「悔しい気持ちがわかなくなった」とよく言っている。

これが、肉体面以外での選手寿命のバロメーターだと私は捉えている。
やっぱり、ウラ面のエネルギーが果たしている役割はある。

それが変化するのも、人の成長として自然の流れ。
持ち続けていた悔しさが「昇華」されて、いつのまにか「消化」して、やがて、あの悔しい思いのおかげだった、と「感謝」に変わることもある。

価値観やステージが変われば、悔しさも変わる。
私自身も、悔しさを感じる場面は昔とは異なる。

「悔しさ」には、そのときの自分の価値観や美学、可能性が隠れている。
悔しさを封印して片づけてしまうのはもったいない。
悔しさ負けは、ネガティブでもないし、カッコ悪くなんかない。

むしろ、自分をウラ面で支えてくれる、ものすごいエネルギーだと思う。

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