自分が生きていることで成し遂げられることなんて多分ないし、誰かの記憶に色濃く残る人生なんてそうそう滅多に歩めるものでは無い。

例えば今散って消えたいと思ったとして、ではそこで誰が自分のことを自分として認識して、この生き方を褒め称えるのかと考えたら、やはり誰も該当しない気がする。わたしの中で、わたしが生きている意味は、多分きっとそこにある。

誰かに存在価値を否定されたり、見た目を否定されたりして、消えたくなった時。
あなたの生きる意味になれたらな、と思って、色々な媒体で、今消えたい誰かの目に留まる事を祈って活動している。

生憎、それが成功した試しはない。

そもそも、わたしがわたし自信を救えていないから、そういう結論に辿り着くのも必然ではあるのかもしれないが、やはりどうしても、救いたいと願ってしまう。

どれだけ悪い意味で利用されようとも、生きていてくれたらそれでいいと祈ってしまう、あなたや誰かの死にたいが、どうか、風化して、こんなこともあったねと笑い事になりますようにと日々祈ることしか出来ていない。

あなたが今どう思っているかは分からない。

うざったい文章だなとスクロールの手が止まらないかもしれない。

でも、聞いて欲しい。
今死にたい誰かも、ずっと前は生きたいと思っていて、その希望を奪ったのは周りの人間含めた社会だから、わたしはその社会の末端の希望をかき集めて、それを死にたいあなたに届けたい。

綺麗事に聞こえる?

そうかもしれない。

だけどわたしもずっと死にたい気持ちは変わらない。
でも、先述したとおり、誰かの希望になりたい、誰かの希望になって記憶に焼き付く存在になりたいので、それまでは迂闊に命を絶つことが出来ないのだ。

だから貴方も、いつか、わたしが死ぬその時まで、ほんの少しの希望を共に握りしめて生きてくれないか?

これは、わたしからの、愛しい貴方に向けたお願い。

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