見出し画像

【書評】居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書(シリーズケアをひらく)

「読んだ本の感想をnoteに書いてみませんか?」

真っ白な新規noteの投稿画面にグレーの文字で表れるこの一文を今まで無視していた。そうか、元々noteは本の感想を書くところなのか。

それならばと今日は東畑開人著『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書(シリーズケアをひらく)』(医学書院出版)の感想を書いてみようと思う。

そもそも「ケアとセラピー」の明確な違いとは何なのだろうか。この本の著者は京大大学院出の若き臨床心理士であり沖縄のデイケア施設に就職した一人の精神科デイケアでの話を「学術書」にしたためた一冊である。

ケアとは何か

ケアとは傷つけないことである。

よく心のケアと叫ばれているが心の「ケア」とは「手当て」と似ている。傷ついた心に手をあてて、もう傷つかないでいいんだよとさするイメージをすると分かりやすい。

現在新型コロナウイルス関連で心の相談窓口の電話相談ダイヤルがテレビに表示されている。心のケアはまだ始まってもいない。ダイヤルは恐らくパンク状態だろう。

そしてセラピーとは何か

セラピーとは傷つきに向き合うことである。

例えばカウンセリング。優しい心理士が否定も肯定もせずに「うんうん」と話を聴いてくれるイメージを思い出すと分かりやすい。しかしセラピーとしてのカウンセリングはそんな生優しいものではない。

傷ついた痛いところをグリグリと触れられる。抱えている問題の棚卸しをし問題の明確化を行い、その問題と対峙する。だからセラピーとしてのカウンセリングは辛いのだ。辛い部分に向き合ってこそ新しい自分に「脱皮」するきっかけが生まれる。

しかしケアとセラピーの明確な区別というのはないのかもしれない。臨床心理士は「セラピー」のプロであり専門性の高い心理療法について多く学ぶのであるが実際の仕事となると「ケア」が多い。

「居る」とは、「する」とは

本書では「トンちゃん」と呼ばれる臨床心理士の卵の著者が沖縄のデイケアで「居る」ことで見えてきた風景だったりメンバーさんや職員との会話だったり、普遍的でいながら私たち一般人には見えづらい、シークレットで閉ざされた関係や時間について淡々と語られている。

著者が臨床心理士っぽくないのはその文体にある。もちろん人柄もあるのだろうが、そこには「あなたたちを診てあげますよ」的な白衣を着た上から目線の医療従事者ではなく、「あくまでここに居るだけの僕」なのである。

だから気取ることなく文字は躍る。タメ口で話しかけたくなる存在。そんな臨床心理士を私は知らない。

円環的な時間と線的時間

ケアとセラピーの時間についての対比についての表現。ケアは円のようにぐるぐると回り、セラピーはぐるぐると回りながらも右から左へと流れていく。この「流れていく」というのがミソだ。ケアは円環的であるから変化もないし旅に出て人間的成熟を得るなんてことはない。

つまり私たちの日常はケアであり円環的であり、それが同じペースで流れているからこそ落ち着いて日々を営むことができるのだ。

デイケアもしかり。何の変化もない。ただそこには居るだけでいいというメンバーさんとの交流がそこにある。そこには自然発生的に会話が生まれ、スポーツで絆を深め、同じ空間で恋に落ち、失恋し、内輪ネタで大笑いをする癒しの空間がある。

誰もが誰かを頼って頼られて生きている

「依存労働」という言葉がある。脆弱な状態にある他者をお世話する「仕事」である。これは何も医療従事者のことに限らない。私たちの日常にも子を世話するお母さんの仕事や、介護が必要になった状態になった身内の世話をする子どもの仕事も「依存労働」だ。

例えば家事が全くできない旦那さんのご飯をせっせと作る奥さんもそのうちに入るだろう。何もかもが完璧に一人でこなせる人間なんてこの世の中にいるのだろうか。だから依存労働は本質的な営みであり私たちの本能である。依存労働の社会的評価は低く見えにくいが、確かに本能に備わっている人間の性である。

物語は最終章の前に二人の看護師の退職という伏線を張り巡らせる。この後展開のスピードが一変する。

ブラックデイケアの存在

今までゆるやかにデイケアの牧歌的な風景が描かれていたのだが、最終章で一気に加速する。というのも著者が血反吐を吐いて倒れるのだ。

そして罠に気づく。ブラックなものに気づく。そう「ブラックデイケア」の存在を。

小林エリコ氏の『この地獄を生きるのだ』のエッセイが抜粋される。このエッセイは衝撃で立ち読みで一気に読んだことがある。

デイケアがすべてブラックとは言い切れないが、実際のデイケアはメンバーさんが「居る」ことが収入になるというビジネスモデルで成り立っている。何もしなくてもプログラムが用意されていなくても、メンバーさんに来てもらい「居てもらう」ことで病院の経営は成り立っている。

「居るのはつらいよ」

医療従事者の多くは希望や夢を抱いて医療施設や福祉施設に就職するが、現実と夢の乖離に愕然として退職していくケースが多いと聞く。そこには「やりがい」以上の渦巻くものに支配されるのだろう。

そして仕事に疲れ自分を見失い、アジール(避難所的な場所)へ逃げる。著者のアジールは卓球室や事務室だった。

そして「居るのはつらいよ」と叫ぶ著者は沖縄のデイケアを退職する。

「ただ、いる、だけ」の価値がよく見えない。

だけど、「ただ、いる、だけ」によって金銭が得られる。

だから、金銭を得るためには「ただ、いる、だけ」が必要である。

(P.325 「最終章 アジールとアサイラム 居るのはつらいよ」より引用)

金銭を得るための手段としてのデイケア。ブラックデイケアの歪み。ここに「居る」人が病院の収益となる現実となっている。

精神科デイケアも作業所も主体性なく「居る」ことへの警鐘と、それを助長している社会の仕組みに対していつも疑問を抱えていた私にとってこの本は「救い」であった。

おわりに

同時に読み終えた後の爽快感はハンパなものではなかった。この本はエッセイでもあるけれど学術書でもある。その意味が心に響く。

最終頁(P.338)のこの一文で爆笑した。

もっと、光を。エビデンスと効率性の透明な光ではなく、タカエス部長の脂ぎったハゲ頭の不透明な光を。

一読の価値あり。ふしぎの国に迷い込んだものの、実際見たものは超絶リアルな社会構造だったという何にも代えがたい爽快な気分でそっと本を閉じた。

初めての読書感想文、最後まで読んでいただきありがとうございました。





ありがとうございます!あなたに精一杯の感謝を!いただいたサポートはモチベーションアップに。これからの社会貢献活動のために大切に使わせていただきます。これからもどうぞよろしくお願いします。