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ボヘミアンラプソディーがウケるなら

もっといい社会が広がってるはずなのに。

「ボヘミアンラプソディー」を見た。ロックバンドのQUEENの、ボーカルのフレディ・マーキュリーに焦点を当てた、ドキュメンタリー。

マーキュリーはゲイで、エイズで亡くなった。
これは言うまでもなく非常に有名な話である。

思想・宗教の違いで、肩身が狭かった彼は、様々なすれ違いや葛藤を経験する。私も、家族とはうまくいかないし、会社ともうまくいかないし、社会の動きや時事問題に対してもズレを感じるし、すごくすごく、彼の不器用さやすれ違いには共感して、彼は凄まじい天才なはずなのに、全然「映画の中のスゴイヒト」にはならず、感情移入が止まらず、引いて客観視することが難しかった。だから、感動したし、終始苦しかった。

今、偏見や潔癖で保守的な考え方が強い日本でこれが広まり、洋画売上が今年トップであるほど評価されているのは、すごく意外だし、これがウケるなら、世間はもっと暮らしやすいのにと思った。
この映画を評価するには、リベラルな思想が絶対必要。自民党は、これを見ても、「同性愛は生産性がない」というのかな。

ゲイも、ロックも、描かれていることはすべてアウトサイダーだったけど、これが評価されるってことは、多様な考えを持っている人は実は数いるみたい。だとしたら、この世界、まだ捨てたもんじゃないな。

話は少し変わるが、先日、週刊誌SPA!の「やれる女子大生ランキング」が取り上げられ、話題となった。ランクインした大学が抗議し、様々な意見が飛び交った。皆さんは、これをどう感じただろう。

私は、そのランクインした大学出身ではないが、女子大卒であり、昨年まで大学生だったので、この問題は非常に主観的に捉えられる。
「やれる女子大生」ではないが、どの大学にもそれぞれもジョークが有り、レッテルが貼られる。早稲田も慶應も東大も、どこもレッテル貼られてる。それぞれの大学に印象があり、仮に自分がそうじゃないとしても、大学名が、周りからは印象として自分のアイデンティティの一部になる。

それを踏まえた上で、私は、この問題に関してどう思うかというと、私個人としては正直どうでもいいの一言。仮に、私の大学が「やれる女子大学」に入ってたとしても、私個人はそこまで大学と結びついてないし、「でも私は違う」と言い張れる。散々「〇〇大学らしくない。女子大の女子らしくない。」は言われてきたから、大学の小さな噂で何も左右されないし、先ほど提示したとおり、これほど大学ごとにジョークやレッテルが飛び交っている今、なにもない。

だが、私が生きていく中で、私の周りに対する感情が面倒だなと感じる。例えば、少なくとも私の両親はいい顔をしないだろう。私の祖父母も、そして、同じ大学の内気な女の子とか、プライドばかりで行動しない子とか、こういう特集があったときに、嫌な顔するのは目に浮かぶ。

だから、自分は共感できないけど、嫌がる人が周りにすごく多いことは事実である。その嫌な顔が存在するから、世の中の情報やメディアは、「嫌な顔」に最低ラインを合わせて、叩かれないような文章や発言を心がけていると思う。松本人志が指原莉乃に「カラダでコネが云々・・・」といじっていた様子が炎上したのも、同じ理由だ。潔癖層が世の中には存在する。

#metoo運動にはじまり 、スポーツ界のパワハラが問題となった昨年。
世の中は、パワハラやセクハラに敏感すぎる。決してそれらを評価するわけではないが、所謂ダウンタウンのネタが通じなくなり、「やれる女子」というジョークも通じなくなる。(こんなの軽視すべき内容、わざわざ抗議出すより、もっと他に大学はすべきことがあると思う。気にする人種がいるのはわかるが。)
原因は、SNSだと思う。細かすぎる偏った意見が、リツイートや動画配信によって、簡単に広まる。バズっているツイートやYouTubeはたまに、あまりに偏っていて驚く。そんなに人の意見に流されていないで、皆が皆、もっと自分の頭で物事を考えた方が良い。

あそびを許し、ロックやアウトサイダーを許し、多様性を理解する社会になったらいい。ボヘミアン・ラプソディが評価されるのはすごく意外だった。やっぱり天才だからかな。天才じゃなくても、色んな人がいて、それを許容し評価しあえる社会になったらいいね。

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