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海外市場で勝ち抜く、創業60年の進化する会社と創業者の物語

2014年、小物家電業界のリーダーであるT社から、創業50周年を記念誌の制作依頼を受けた。打ち合わせにうかがうと、すでに大手出版社の社史担当の事業部長とその部下が参加しており、コンペ形式であることを知らされた。帰路、この仕事は大手出版社に決まるだろうと思っていた。

しかし、意外なことに私の会社が選ばれたのだ。T社の担当者から選考理由を聞くことはできなかったが、私たちは柔軟に対応できると評価されたのかもしれない。

T社のK会長は83歳になられていて、自ら愛車を運転して出社されていた。記念誌の取材では5回ほどお会いし、創業者としての歩みや、T社の50年間の激動の時代を超えてこられた変遷について、たいへん率直なお話を伺うことができた。


海軍将校の父との最後の別れ、貧しくても高校に通わせてくれた母の努力

K会長は1931年、静岡県浜松市の郊外で海軍将校の父と母との間に生まれた。1944年、戦争が激化する中、家族と離れて神奈川県横須賀に赴任していた父はフィリピンへ出征することになった。当時、K会長は13歳だった。

父を乗せた列車が家の近くの東海道線舞阪駅に停車する知らせが届いて、K会長の家族は見送りに行った。

父を乗せた列車が舞阪駅に停まると、父はK会長ひとりを列車のデッキに呼び寄せて「お前は長男だ。父さんはもう帰ってこられないかもしれない。父さんの代わりになって母さんや弟や妹の面倒を見てくれ」と言った。それがK会長と父の最後の別れとなった。

やがて浜松市は大空襲によって焼け野原と化し、食べ物も不足した。K会長の一家は親戚の家に疎開したが、母親ひとりの働きで得られる収入は限られていて、家族が食べるだけで精一杯の生活となった。

親戚はK会長が中学卒業後に働くように強く勧めたが、母親は「子どもたちにできることは教育しかない。どんな困難があっても高校までは行かせます」と言って涙を流した。その言葉どおり、K会長は高校へ進学した。「母は苦労して進学させてくれました。立派だったと思うし、忘れられない思い出です」とK会長は語る。

朝鮮特需に沸く日産の前身富士自動車で、物資の出入りの責任者として働く

K会長は高校を卒業した後、浜松市内にあった親戚の織物屋を手伝っていたが、もっと広い世界を見たいと思っていた。そこで、国民学校の頃に住んでいたことのある神奈川県横須賀市の友人の元へ行き、富士自動車(日産自動車の前身)に就職した。

1950年に朝鮮戦争が勃発すると、工場は破損した米軍の車両が多数運び込まれ、その修理で忙しくなった。
20代のK会長は輸送課に配属され、物資の出入りをチェックする責任者となった。その仕事にやりがいのある日々であった。

しかし、1955年に朝鮮戦争が休戦すると、工場の仕事は大幅に減ってしまった。会社は人員削減を決めたが、労働組合はそれに反対してストライキを起こした。そうしたなかで、K会長は仕事を失ってしまい、失業保険を受給されることになった。K会長は東京に引っ越して、五反田の職業安定所(現在のハローワーク)の紹介で、S社の面接を受けることにした。

東京の会社に移って営業としてトラックで北海道から九州まで走り回る

K会長はS社の面接で「10年間は頑張りますが、その後は自分で会社を作りたい」と言った。25歳のK会長は、自分の夢を実現するための将来を考え決意していたのだ。
S社は健康・理美容器具の会社で、K会長は営業として採用された。当時の日本では、今日のような流通網はまだ整備されておらず、営業マンはトラックに商品を積んで、全国を回って売るのが普通だった。これは当時「トラックセールス」と呼ばれ、盛んに行われていた。

K会長も、北海道から九州まで走り回り、各地の代理店とともに宣伝や販売に明け暮れた。
しかし、S社の製品は全国的にはあまり知られていなかったため、販売実績は厳しい状況であった。
そこで、K会長は理容美容業界だけでなく、電気業界にも販路を広げようとし、東京・秋葉原などで営業活動をした。
この時の経験が、後に自分で会社を経営するときに役立ったとK会長は語る。そして、この10年間の勤務時代に得た理容美容界や家電業界の人脈も、独立後のビジネスに大きな助けとなった。

計画通りに10年間勤めて、自分の会社を立ち上げる

1960年から日本経済は高度成長を始めた。1964年には東京オリンピックが開かれた。人々は年々、収入が増えていき、テレビや冷蔵庫、洗濯機などの家電を競って買い求め、好景気を実感していた。

1965年、K会長は10年間勤めたS社を辞めて、東京・渋谷区で小物家電販売T社を立ち上げた。S社とは円満退社で、S社のヘアドライヤーやマッサージ器の販売を引き続き行った。

そこでK会長は新しい販売方法を考え出した。それは職域販売だった。当時まだ珍しく、企業に出向いていき昼休みに展示販売するというものだ。ヘアドライヤーは3回払いで買えるようにしたので人気があった。

K会長が雇った数名のセールスマンは歩合制で、毎月数百台のヘアドライヤーを売った。この職域販売は他の業者も真似するほど成功した。

念願の工場を建てて自社製品を売り出すが、3年間は苦闘が続く

1964年の東京オリンピックが終わると、日本経済は不況に突入した。戦後初めて国債が発行されたほどであった。

K会長は自分のオリジナル製品を作るために、メーカーとしての事業を始めるため、1965年に長野県に自社工場を建てた。そして、電気業界にも販路を広げるために、秋葉原の会社に営業をした結果、少しずつ取引先が増えていった。

けれども、創業から3年間は苦労の連続だった。工場の設備投資で借金がかさんだ。工場の人材確保や定着もうまくいかなかったし、販売も思うように伸びず、資金繰りが悪化していった。

K会長は「1968年頃までは、製造も販売も資金も全てがうまくいかず、もうダメかと思いました。今でもその苦しみは忘れられません。でも、その苦しみを乗り越えたことで、経営者としての覚悟ができました。その後も試練はいくつかありましたが、この3年間を耐えたおかげで、それ以降でもどうにか乗り切ることができました」と語る。

アメリカ大手家電からのOEMの依頼、必死の努力で高品質基準をクリア

1970年T社は貿易商社を通じて、アメリカの大手家電メーカーからヘアドライヤーのOEM生産の依頼を受けた。数量が多かったので、K会長は自社だけでは無理だと思って、信頼できる協力企業と一緒に生産することにした。

この協力企業は、K会長が以前勤めていた時に知り合った企業だった。 しかし、OEM生産は簡単ではなかった。アメリカでは厳しい品質基準(UL規格)があって、T社もそれに合わせなければならなかった。当時の日本では、UL規格に準拠する企業はまだ少なかった。

K会長はUL規格をクリアするために、アメリカからインスペクター(検査技師)を呼んだり、社員をアメリカに派遣し、品質管理の手法を学んだ。根気よく努力した結果、ついに厳しいUL規格をクリアすることができた。

この努力が認められて、1976年にT社は納入先のひとつであるアメリカの大手企業から高品質な製品を納入し続けたことで、シンボル・オブ・エクセレンス賞を受賞した。

やがて、T社はアメリカで高品質のものづくりができる企業として評価され、アメリカの他の家電メーカーや百貨店などからも注文が増えた結果、対米輸出が伸びて、T社は経営基盤を固め成長軌道に乗った。

円高とオイルショックが続き、対米輸出重視から国内販売に転換

1973年、プラザ合意と第一次オイルショックが起こった。1ドル360円から120円台と一挙に高くなり、オイルショックでアメリカ経済が停滞し、T社の対米輸出も急激に減ってしまった。

そこで、T社は国内市場に力を入れることにした。K会長は思いきって博多、広島、大阪、名古屋、仙台に営業所を開き、販売網を広げた。
また、新しい工場を建てて、生産力と品質を向上させた。そして積極的に営業を展開したので、業績はじょじょに回復していった。

70年代初めには、回転するカールドライヤーを開発して販売した結果、美容業界から大きく注目された。
やがて、この実績からコンシューマー向け販売にも進出し、T社のブランドは業界だけでなく、一般女性の間にも知られるようになった。

はじめての海外生産を決断、韓国企業への委託生産に踏み切る

対米輸出が低迷していたとき、大阪の商社から中近東向けの輸出の引き合い話が来た。K会長は以前の人脈を使って、韓国の企業にOEM生産を依頼した。T社にとって海外生産は初めてのことだった。

T社は韓国の企業に技術者や管理者を派遣して、技術指導や品質管理を教えた。韓国で作った製品はT社の検査部門に戻して、全品検査をしてから中近東に輸出した。

T社はかつてアメリカ企業からの受注で学んだ厳しい品質基準を韓国の企業にも求めた。 最初は韓国の企業はT社の品質レベルに達するのに苦労したが、T社の根気強い指導でじょじょに改善され、やがて韓国の企業はT社の要求に応えることができるようになった。

T社の中近東向け輸出は、高品質で安価な商品が評判になって、市場シェアを拡大していった。韓国でのOEM生産も順調に続き、中近東市場の販売も増えていった。

創業30年で事業継承へ

T社は1994年に中国・深圳でOEM生産を始めた。深圳でも韓国での経験を生かして、高品質な小型家電を作って、自社ブランドを海外市場と国内市場で確立した。創業30年で、小型家電業界ではトップメーカーになった。
 
日本では1980年代後半からバブル経済が起きた。土地や株が高騰した。多くの企業は借金をして投機に走った。しかし、バブルは崩壊し、企業では借金が重荷になった。 「私たちも借金で苦労しました。それに、私自身が1996年には手術をしなければならなくなりました。その時に三男に社長を譲りました」

T社は2015年にフィリピン・ヘザ市に自社工場を作った。2400平米の敷地に100人が働く工場だ。

創業から60年間、T社は自社ブランドの高品質な製品を作り続けて、小型家電の分野で高い評価を得ている。そこには、T社が競争の激しい小型家電業界において、常に新しい商品の提供に挑戦する真摯な姿勢があり、それは創業以来の同社のDNAだと思う。
 
K会長は数年前に亡くなられた。心からご冥福を祈る。

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