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一万字の自己紹介〜自己受容のプロセス〜


0. はじめに

ご覧いただき、ありがとうございます。

てんかん発作を持ちながら、娘にとって適切な家庭教育について日々思考を深めつつ、現在は母親業をメインで行っているながいあきと申します。

2016年に会社員生活が自分には全く向かないと見切りをつけて、以降起業をしようと起業塾へ通ったり、各種セミナーへ行ったり、コーチングを受けたりということをしてまいりました。自身でもそのような自己啓発の場所を作ったこともありますが、私自身がなぜやるのか核心をつくところまではいきませんでした。
随分長い間、対人関係でうまく行かなくなって衝突したり、決断ができなかったり、続かなかったり、もうダメなのかなと自信を無くしかけていた時に、いくつかのことがキッカケとなって、原因は自分の中にあると、心の底から気付かされました。
なぜ今になって気づいたのか、どう気づいているのか、大切なことはなんなのか、綴っています。

長年行ってきた、自己理解、自己受容への道、そして若い時に全くやってこなかった主体的に客観的に考えて決断をするということ、見かけや権威より内面を大切にすることを「17歳のキャリア教育」というセルフプロジェクトに転換していきつつあります。

数年の時期を経て、このプロジェクトの起業化を考えています。
これから紡いでいく人生録は、私の想いに共感してくださる方を募りたいという気持ちを持って描いた自己受容のお話、そして長年の経験則から得てきたこれがあれば人生豊かになると感じる持論を展開する内容となっています。
 

1.もぬけの殻だった学生時代

イジメられっ子、イジられっ子

長女として生まれ、「お姉さんなんだから〜しなさい」に従っていた小さい頃が起因してか、生真面目な性格を持っていると思います。
父親が自衛官だったため、中学1年生まで、基地から基地へと2年おきに引っ越しが続きました。行く先々で方言が違うといじめられてきました。
いじめられたくなくて、両親からわやくを言われたくなくて、小学校高学年くらいから、自分のステイタスを「優等生」に持っていこうと勉強をしてきました。
両親に良く見られたい、周りからいじめられたくない、などと周りの期待に応えようと行動を取り続けてきた10代は、自己肯定とは無縁の世界でした。
後ほど、詳述しますが、家族関係が良好かどうかということは、あるがままの自分で良いと感じられるかどうかにとても大きく関わってくると認識しています。

イジメられていることをその言葉通り自分の中に意識するのは私自身であり、もしかしたら、イジられていただけなのかもしれません。生真面目な性格と思い込みが、「私はイジメられていました」と表現するようになっていったのかもしれません。
それほど、自分自身の外で起こっている世界は脆弱で真実などは簡単に曲げられてしまうものだから、自分を大切にすることが先ずは大事だと気づいたのはごく最近です。若い時にそのことに気づいていたらもっと自信を持って周りの方々と接することができたかと感じています。今までの私は自分の不安を周りに訴えているだけでした。

生まれつきの熱量の高さと長男の弟の出来の良さが相まって、負けず嫌いの私は地頭が良い方では決してありませんが、確実に努力に比例してくれるテストをとても得意としていました。 
テストには出ない問題については無関心、ボーッと考えていたのは、勉強さえして、ある程度良い成績を取るという両親の意思に沿って歩めば、私の人生は安泰なんだろうということでした。

高校・大学進学までのいろいろ

進学した高校については、私が決めました。理由は3つ、
1セーラー服が着てみたかったこと、
2住んでいる埼玉ではなく東京の学校へ通いたかったこと、
3池袋に立地している(から遊べる)
ことです。
私の記憶にはないのですが、泣いて喚いて、行かせてくれと頼んだそうです。確かに共働きと言えど、3人姉弟で男の子がまだ2人も残っているのに私が私学に通うことは両親としては望ましからぬことだったのだと感じます。
(男の子だから表現はジェンダー問題に繋がってしまいますね💦理解しつつ昭和の価値観に基づいて書かせていただいてます)
とはいえ、結局昭和初期生まれの両親は体裁重視を選択して、私と利益相反することはありませんでした。偏差値が高く、進学実績が良い学校だったからです。
 
この池袋で過ごした高校生活はとても楽しく人生の中で最も高い割合でお金を遊興費として使ったのではないかと感じるくらいですが、私自身のこの経験こそが、セルフプロジェクトである「17歳のキャリア教育」に繋がっていて、娘がなぞらないよう最も努力しているところです。

絶対的な存在だった両親がそうではないと理解した17歳の頃に、私はピアスをしたことで先生に見つかり、担任の先生に「お前は死んでいる」と言われました。
大学に進学せず舞台女優への道を歩みたいと思っていた頃合いでしたが、両親の強い圧力と、先生に対する怒り、この先生の出身大学より偏差値が高い大学に行ってやるというルサンチマン的感情からくる熱量が私を大学進学へと動かしたのです。
でも、学びたいことは見つからず、社会に出たときに「潰しが効く」という理由で法学部に行こうと決め、やる気がなくほとんど勉強をしない中で数打ち当たった私大に進学をしました。

総じて、諸々のことについて決められなかった訳ではなく、私は自分で決めてきたのですが、決め方に問題があったのだと振り返っています。
当時、キャリア教育などというものはありませんでしたし、どうやって将来のことについて考えたら良いのか分かりませんでした。
両親は、安定した生活を送れるからという理由で公務員になることを勧めました。
心理学が面白そうだって思っても、
『あきちゃんは悩みこむタイプだからやめときなー』
という私の人生を背負う責任など一切背負っていない友人の一言で、
『んだねー笑』
と簡単に納得して諦めました。

見かけ、外観、権威を気にする私がもうこの頃にはいましたし、同時に自分の内面と向き合わなかった私もいて、迷走人生はこの辺りから始まっています。


2.発作の話

大学卒業直前にてんかん発作が起きるようになりました。
ここで、私の発作について少し説明をさせてください。
焦点は「意欲」をつかさどる右前頭葉で、発作型は部分てんかんです。
一時的な意欲低下はたまにあるものの、七転び八起きで起き上がり小法師のようにムクムクと湧いてくるエネルギーは、生まれつき持っている熱量の高さなのだと捉えています。
発作の根っこには、ネガティブな感情・感覚、恐れとか不安とのつながりがあって、何かしらミスをしたり、追い立てられている状況にいることなどがキッカケになって生じたりする時があります。(この理由が全てではないため、追い立ててはいけないとかミスを注意してはいけないとか思わないでください)。一日に少なくて3回、多くて4、5回キーっと叫ぶような声を出して四肢を大きく動かす状態が10秒ほど続きます。
直ぐに元に戻るため、救急車のお世話になったことはありません。静岡のてんかんセンター(国内では有名なてんかんの専門病院)に入院したり、薬剤治療で高名な先生を頼って何度も病院を変えたりと努力はしてきましたが、なかなか発作は止まらず、今も多量多剤の服薬をしています。

このてんかん発作を起こしたきっかけについてですが、感じるところとして、1つ、大学4年時に就職活動を行わなかったということが挙げられます。将来への不安や恐れが発作を誘発したのかもしれません。

 就職活動をしなかったのは、自分の進路についてほとんど考えていなかったからです。自分を大切にできていなかった、刹那的に生きていて、外ばかり向いていました。外の事柄を大事にしようと努力していましたが、自分には何の栄養もあげようとしませんでした。
だから、何事にも満足できていませんでした。

 大学にはとりあえず卒業することを目指して、取得必須単位の授業に出席するべく、4年間いっぱい八王子の山中に通っていました。この時、私の不安で将来が見通せない状態を知っていたのは、「てんかん発作」だけだったのかもしれないと思うと、今は発作に対して「ありがとう」と言いたい気分です。

しかしながら、そんなことを全く受け止められなかった私は、当時こんなふうに感じておりました。
「いじめられたくなくて、勉強を頑張ってきたのに」…
「自分のしたいことではない方向を向いてまで(両親の思う方向へ)頑張ってきたのに」…
なんで、私がこんな目に遭わなくちゃならないんだろう… 
 
今とは全く異なる捉え方をしてしまったのです。
両親を恨み、自分を蔑み、哀れみ、もう未来はないと思い込み、これほどの絶望はないと悲劇の海の中に飛び込んでしまいました。
見た目を気にする私は自分の発作を映像で見て、自分を殺したくなりました。
悲劇の海の中は、失うものが何もないためとても居心地が良い場所です。思考を停止させて、その日その日を幽霊のように、生きていました。
処方してもらった薬を飲み、カウンセリングを受けろと言われて受けに行き、働くように言われて障害者雇用で就職先を探し、正直全く興味が持てなかった会社へ就職、通勤を始めました。
 
自分で考えないこと、自分の内面と対話しないこと、外見や殻や権威にばかり囚われ、てんかん発作を蔑視した私は、電車の中で起きたてんかん発作を心臓発作と言い訳してみたり、障害者であることを隠そうとしたりしながら生活をしていたのです。


3.最初の気づきのきっかけは娘

出産への決意

人生の中で初めて、私が周りの大反対を押し切って考えて決めたことは出産でした。薬を飲んでいるのに、障害児を産むつもり?と家族全員の反対を受け、責任は持てないと勘当も宣言されました。

2010年年の末に、元気な可愛い女の子が生まれ、このことは私の人生を変えてくれました。
妊婦の間、私は少しだけ、自分を守らなければいけないと感じるようになりました。お腹が大きくなるにつれて、私の刹那的な生き方はどうなんだろう、見直すべきなのではないかという考えが湧いて、それまで持つことの無かった、漢字の「安」という一文字が私たち親子の人生の中に入ってくるのを感じていました。安定した生活、安らかな空間、子育てで大事なんだろうと想像していました。

児童相談センターとのいろいろ

生まれたばかりの娘は、薬物離脱症状という診断名で保育器に入っていたので私の方が先に退院をしました。私にてんかん発作があること、ひとり親であることを心配した医者は児童相談センターに相談をして、児童相談センターは何も私に連絡をしないで、娘を勝手に乳児院に連れていってしまいました。このことについてはまだモヤモヤ感はありますが、私の熱量の高さが発揮できたとポジティブに振り返るのは、「娘と私が一緒に生活するために」というセルフプロジェクトの成功でした。

初期は、感情的に毎日のように電話をかけて娘をいつ返すのかと訴えていました。「5年は返しません」と言われ、児童福祉法を読み倒したり、主治医に連絡をして私の発作型を聞くようにお願いしたりしていました。ですが、その程度ではぬるいということがだんだんと理解されていったのは、児相ケースワーカーが一人で80件以上ものケースを持っていることがわかった時でした。1/80の我が家が娘を取り返すために私が行ったことは3つ、冷静になること、娘に毎日会いに行くこと、話し合いをする場を設けけることでした。

社会の荒波に揉まれていないのか、持ち前の性格なのか、当時の私は感情のコントロールができませんでした。だから、冷静になるということにとても時間がかかりました。何を言われても感情的にならないという状態になるを何度も何度もイメージして、主治医、住んでいる自治体の子どもに関係する複数の福祉課にお願いをしてご参加いただいて、児相ケースワーカーに自治体サービスの説明をするなど出来るだけ早期に娘と私が共に暮らせる日を模索していきたいと訴えました。

2年半が経過して、娘は無事に我が家に帰宅しました。「こんなに早く返すのはとてもレアなケースです」との児相の言葉が私にとっては褒め言葉でもあります。
毎朝起きて、1時間半かけて杉並の乳児院へ面会に行くという生活自体、娘と暮らす希望はその時、私自身、私でいられた初めての時かもしれないと感じています。
それでも、まだまだ気づいていないことがありました。


4.その後のきっかけ

家族を大切に…

家族との関係は平和であることがベストだと考えています。
遠くに住んでいても、互いに大切にし合える気持ちを持っている持っていないで随分生き方が変わってくるかと思います。
 
よく、教育格差を論じる際に経済格差が根拠であるかのように論じられたりするのを見聞きします。例えば、東大に進学する人間の親は東大出身で高収入であると言われますが、全く科学的根拠がないながら、私の感想を申し上げると、家庭環境が良いのだろうと感じます。親と子どもが信頼し合えている関係性が存在していたから、勉強なり運動なりを10代で頑張れたというところに帰着するんだろうと思います。

私の場合ですが、母との関係はあまり良いものではありませんでした。
てんかん発作を起こした時に、原因を探し求めて、母の出産のせいだと怒りを当てがったり、娘の添い寝ができる母を妬んだりしました。乳児院に預けられている間は母が一緒にいれば外泊が可能というルールを作られていたのです。

私が嫌いだと感じている限り、相手も良い気持ちはしないですよね。
母も私の発作を心配しながら、距離を遠くしていました。相性が合わないとお互いに思っていました。私にとっては、母がネガティブな発言ばかりするところが苦手でした。
それでも、何かあると母に理解されたいと感じる私が存在していました。
母についての話題が出ると、私は必ず子どものように泣いていたからです。

今年3月初めに発作が原因で肩を骨折した時に、母は私と娘が心配で私の世話に来てくれました。

どうせ、孫が可愛いんだろう…

そんな穿った見方をしていました。

母に愛されたいという気持ちを持っていたのに、とても大好きなのに、多分わかってもらえないだろうと、本当に思っていることを伝えていなかったのです。
そこで、常に物事をネガテイブに捉える母に対して、私自身は『希望』を欲していること、母は一緒に子どもを育てているというけれど、嫌な空気が生まれるとすぐに実家に逃げるように帰宅することで孫との約束事を守っていないことなど、母に対して思っていることを泣きながら全て伝えました。

しばらく経ってから、母は言いました。

『私は看護師だから、最悪の状況を見据えて仕事をしなくちゃならないの…だから、なんでもついつい悪い方向に考えちゃうのね…』

自分についてほとんど語らない母が、私はを主語にして語ってくれたことは嬉しい出来事でした。
同時に、私は母のことを本当に理解しようとしていなかったと気づいたのです。
そのくらいから、私たちはお互いに思っていることを普通に言い合えるようになり、母は我が家に連日泊まることができるようになりました。
ですので、「半径5m以内にいる人を大切に」という言葉にはとても賛成です。
ここで、「私は」を主語に相手を理解しようという姿勢でコミュニケーションをする対話というものは非常に互いを理解し合う上で重要だと再認識しました。

私の学校、ADDLABOという場所

2019年にADDLABOという学校教育に➕@をしていきたい気持ちを持って作った法人ではない団体で出会った人たちには今でも感謝でいっぱいです。

私に自己理解が足りていないことを教えてくれた人がいて、
私の自己受容の過程を伴走してくれた人がいて、
少し遠くで、冷たくも優しくもなくニュートラルに話を聞いてくれる人たちがいて
いつも私のわがままや愚痴を聞いてくれる将来有望な人がいて、
けん玉成功体験をくれた人がいて、
オーガニック田んぼで珈琲を淹れてくれる農をこよなく愛する私のメンターがいて、
その他たくさんの人たちが、私の不出来さを承知の上で、エールを送ってくれていました。

私が裸の王様状態、言い換えると、私だけ気づいていないけれど他の人たちはみんな分かっていることがあることに気づいたのは即興演劇(インプロ)のエクササイズがきっかけです。即興で演技をするのを見る観客役をすると、演技者よりもずっと簡単に素早く、全体的にそこにあるもの、雰囲気、どう対話がなされているか、どう積み重ねられているのかが見て取れてしまうのです。
インプロについては、思うところがたくさんあるので別の記事でお伝えできたらと思います。

ADDLABOは私が作って閉じた、私が唯一の生徒だった学校のような場所でした。「doingよりbeingが大切」、「散漫していて進む道が定まっていない」、「世界は二元でできていない」、「たくさんのメガネをかけている」そのほかたくさんの気づきにつながる言葉をいただきましたが、最近になるまで腹落ちができていませんでした。

だから、気づきの過程には段階があるんだと認識することもできました。


私の人生グラレコ by Marina Takei


5.人生が豊かになる3つのこと


私の経験則ですが、人生が豊かになる3つのことは以下になります。

1.一瞬一瞬の自分自身を客観的に捉えてそれを大切にしてあげること
(自己理解)
2.半径5m、つまり家族(職場では同僚)を大切にすること
(自己受容)
3.自分を信頼すること=全てをポジティブに捉える姿勢を持つ
(自己信頼)


周りが整理整頓されていて、平和な状態ではないと、大切なものごとには気づきにくいのではないでしょうか。例えば、私は母から愛されていないと思い込んでいたので無意識の中で不安があったのかもしれません。
娘との関係も信頼し合うためには私から信頼をしていくしかない、怖い、不安だという気持ちは愚痴でしかないのです。
今の私は、不安を子どもにぶつけるのではなく、どんなことでもあなたを信頼していますというメッセージを笑顔にして送り続けています。
不安をぶつけてしまう時もたまにあります。その時には、子どもに理由を伝えてきちんと謝ります。
素敵な対話は、自分の不安をぶつけることではなく相手を理解しようとする自分主体の動きから生まれます。

子どもはどうせ分からないと思う方々がいらっしゃいますが、10歳の子どもが10年経つと大人になります。大人になるのに、境界線があるわけではありません。大人である私たちが背中を見せていくことで子どもたちは自分たちが見た大人のようになっていくのです。

自己理解

今まで、自分自身に自信がなく、恥ずかしくて見せたくないという意識が働くことがたくさんありました。
発作が起きるのは私のせいではないのですが、発作を起こしているのは私なので、起きると、「すみません」を何度も繰り返してしまいます。
これは職場でも育児中もありました。

ネガティブに捉えられることに慣れてしまっていて、「すみません」と毎回言っておけば、周りはなんとか受け容れてもらえると体が覚えてしまっていたのです。このようなことを私は「自分を大切にしていない」と投稿内で表現しています。

私自身、このことを直すのに感情のコントロール以上の時間がかかっています。
今でもまだ残っていますが、インプロの師匠から「そのすみません、ありがとうに変えたら?」
の指摘を受けて、以来意識的に直すようにしています。

ようやく、人生の後半に差し掛かりそうな今、家族からの愛情、家族への愛情を素直に持って、穏やかな気持ちを持てるようになりました。

私自身の中にある不安や恐れをきちんと受け容れられるようになれたのは、母の愛情を私が受け止められたからだと感じています。

娘にも母としての私の愛情がまだまだ必要なんだと感じているところです。
自分のコミュニケーションの癖を捉え直すことは自分自身をより成熟した存在へ誘ってくれるように感じます。

自己受容までの過程で大切なことは・・・

先ずは、信頼し合える良好な家庭環境が存在することです。
世の中で最も愛されていること、価値があることに気づけないと、持っている才能や能力が生かされません。

かけているたくさんの色眼鏡を取ったり、残したり、存在に気づいているだけでいいと整理したり、善悪で物事を考えないようにする、思考をトレーニングするなどは、いくばくか技能的なところがあるかと思いますが、ネガティブに物事を捉えないことが肝要かと思われます。

多くの人々に出会い、傷つき、傷つけて、そして支えられながらを繰り返してきた結果が今あるわけなのですが、学んだこと以下です。

自分を否定している限り、他者を否定することにつながります。
自分を適切に評価しないと、他者に対して批判的になってしまいます。
良い、悪いの判断軸を持たないこと、
相手を理解すべく対話をすること、それらが自己受容への一番近い道のりかと思います。

主体性、積極的に行動する力、判断力はこの自己受容をベースにして、初めてポジティブな方向に進むと私は確信しています。

10代、20代のみなさんはたくさん悩んで、迷うことがあるだろうと思いますが、それをそのままにしておいても大丈夫、後で必ず回収するご自身がいらっしゃるかと思います。そのことを信頼して人生を歩んでいけたら、他の人のことも幸せにできる人になるんだろうと感じます。



 

6.上善如水〜わたしで在ることを尊ぶ〜

じょうぜんみずのごとし。
老子の言葉で意味はこちら。
「万物に利益をあたえながらも、他と争わず器に従って形を変え、自らは低い位置に身を置くという水の性質を、最高の善のたとえとしたことば」(goo辞書より)。

私を形容して、せっかちで人に頼ることが得意で、お節介なところがあって、思い込みの激しい熱量が高い人間です、と言うこともできますが、敢えて、水のように生きていたいですとお伝えさせてください。

せっかちな時があり、人に頼りまくる時があり、その時々で変わる自分がいます。一瞬一瞬を大切に、自分も他人も大切に、水が濁ってしまった時にはそれを濾過(指摘)してくれる人たちが必ずいる、そういう性質を持った人間です。

自分を最大限受け容れることで、世界は変わります。
私たちはもっと多くの人たちを幸せにすることが可能です。

これから

10代できなかったこと、20代できなかったことをもう一度取り戻す作業をこれからしていこうと思っています。

人生を本気で考えなかった10代の欠乏はキャリア教育というテーマでこれから数年かけて勉強をしていき、てんかん発作と付き合いつつ、社会人としての私の場所を作ることを目標に頑張ってまいります。

これから私が娘に示したいと感じる姿勢にもなりますし私自身の軸と繋がっていることでもあります。
少しでも、関心を持ってくださるようでしたら、一度お話をさせてください。
ご連絡をお待ちしております。

こんなに長い自己紹介を書いたのは初めてです。
何度も書き直しをしてきましたが、これからも書き直していきたいと思っています。

長文お読みいただき、ありがとうございました❤️

最後に一言。
グラレコを描いてくださったり、娘と遊んでくださったり、毎度お世話になっている2年目社会人の武井万里奈さんに感謝の気持ちを最大限に表わさせていただきます。
本当にいつもありがとうございます❤️



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