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37歳になったらしい。

実感はまるでない。


5月23日、ぼくは37歳になった。実感はまるでない。もちろん歳を重ねた分だけ、知識や対応力の引き出しは増えてはいるけれど、17歳の頃から、いや、もっといえば7歳の頃から頭の中で考えていることはなんら変わっていないようにも思える。

どこで何を間違ったのか

どこで何を間違ったのか、そもそもこれは間違いなのか、何が間違っていて何が正しいのか、もう色々わからなくなりかけているが、「これだけは絶対に多くの人の役に立つはず」と、思える指折り数えられるようなことだけの実現を指針に、生きていくほかない。もう誰も正解を教えてくれるわけでもないし、大きな組織が掲げる大義が本当に正解かどうかもわからない時代にある今、37歳というなまじっか大人になってしまったこともあって、自分の生き方は自分で作っていくほかない。

ちょうど人生の折り返し

仮に人生を75歳くらいでリタイアするとして、ちょうど人生の折り返しだ。は?これまでの人生をもう一回やり直すだけの時間が残っている??だと??…人生は、まぁいいや、いつ終わりが来るかなんて、誰にもわからない。病気や事故で突然明日この世を去るかもしれないし、うちのおばあちゃんみたいにいつの間にか95近くなっても尚、わがまま言い放題でそこそこ元気に暮らしていたりする。人生はわからない。

天職

結局ぼくは、クルマに関することを、「興味がない人を振り向かせる」という特殊技能を用いてやっていくことが、自分で言うのもなんだけれど、天職(今食えてるかどうかは別として)なのだと思う。もちろん、もっとクルマの物理と人間の感覚についての研究に没頭したかったと言う本音は、毎日のように夢に出てくる。だけど、モノづくりというのは、誰かの手に渡った後、それを手にした人が、便利さだったりその性能だったりかっこよさだったり官能性だったりを通して「うれしい!」と思ってくれて初めて、価値が認められる。ただそれは、手に取ってくれる人がいて初めて成り立つことだ。ぼくが会社で仕事をしながら個人的に危惧したことは、「市場がなくなってしまう(急速に縮小している)」ことだった。もっというと、「ない市場からプレイヤーを掘り起こしてくる必要がある」ということだった。

奇天烈な「最後のカード」

ぼくが展開する事業のうち、ペーパードライバー支援サービスというのは、慈善事業でもなんでもなく、そういった、自動車業界全体の未来を根底から支えるための、「マーケットづくり」という奇天烈な「最後のカード」だ。そもそも、人口が急激に減っている。20代の人口は60代の人口のおよそ半分だそうだ。そのうち、免許取得率も大幅に下がっているということを考慮すると、「自動車の国内マーケットは、単純に半分以下になる」ということだ。もちろん、富裕層はや趣味でクルマに乗る人はひとりで2-3台持つことはあっても、その人たちが買う車はまた特殊な世界のハンドメイドに近い車なので、いわゆる「量産車」のマーケットとは異なるからノーカウントでいい。つまり、どんなにいいクルマを作ったって、買い手の数が半分以下になっているという現実を無視することはできない。まぁ、日本はもうメインのマーケットではなく、東南アジアや南米がメインですから日本の販売台数はどうでもいいです、って言われてしまうと、「ああ、そうですか。」としか言いようがないのだけれど、「日本車」というのはやはりひとつのブランドとしてまだ効果がある。効果があるというか、実力がある。10年弱だけど自動車メーカーに勤務しながらテストドライバーとして世界中のクルマを一通りテストしたけれど、日本車の強みは間違いなく存在する。日本車は、北海道から沖縄まで、日本という過酷な環境を「だれもが安全に快適に生活するため」に、日々の暮らしに溶け込んでいくということだ。つまり、日本を制すれば制するほど、海外での「魅力品質」は高まるんじゃないかと思っている。(あ、もちろんアウトバーンでの高速走行性能とかは別で必要だと思います。が、それももう、一定水準はクリアしてるから、ニュル最速とか目指さない限り、国産のどのクルマも、もうある程度十分なんじゃないかなと思います。軽自動車は別ですが。)

瀬戸際

37歳、いろんな意味でここで全てを投げ出して「普通に戻ることを目指す」か、自分が信じる「未来に賭ける」かの瀬戸際だ。結婚も、人並みにチャンスはあったけれど、普通に会社員をやっていたら、そのまま結婚していただろう。だけど、先の見えないこの仕事を選ぶことが、「パートナーへの裏切り」という形となって、毎度、残念だけれど、別々の道を行くこととなる。言い方に語弊があるかもしれないが、このぼくの働き方であったとしても、その時点でお金を潤沢に稼ぎ出すスキームというか、構造が出来上がった後だったら話は違ったのかと思うけれど、まぁ、それも含めてお互いが選んだ結果だよな、と言う以外に、ない。それは相手へのリスペクトも込めてだ。

もう1年だけやって、感染症が来ようが天災に見舞われようが生き残れるビジネスを構築できるかどうかが、ぼくの人生の瀬戸際だ。

何を言いたいのかわからなくなったぞ

この記事で何を言いたいのかわからなくなった。37歳になったよっていう身内向けの報告なのか、なんなのか。そもそも書き出しから誰に向けて書いているのかもわからない日記みたいなもんだ。読んでくれたら、ありがとうございます。本当は、

本当は、

書き出しで、7歳、17歳、27歳、37歳と、10年ずつ区切って書いたのには理由があって、特に17歳と27歳は、まぁひどい1年だった。その話をしようと思ったんだけど、案外37歳の自分が思うところ色々あって、そこそこのボリュームになってしまった。あまり公に書いて面白い話でもないので、読みたい人だけ読めるマガジンにでもして、書こうかなと思いますが、

暗黒の17歳

思い出すと気が遠くなって途中から記憶が薄れるというか、なんかこれPTSDみたいな症状に近いんじゃないかと思うくらい、物理的な身体的ダメージと、精神的ストレスが尋常ではなかった。もう一回やり直したいか?と、神様的なのが目の前に現れたとしても、「ふざけんな帰れ」って言うと思う。もちろん、学校を選んだのもぼくで、厳しい試験を突破してまで入学した学校で、自分が率いた部活で発生したことがそのまま自分のストレスになったので、まさに自業自得のそれでしかないからなんとも言い難いのだが、結果として最悪の1年だった。とりあえず体重を12kg返してほしい。他はいいからそれだけでチャラ。本当に狂っていた。もしタイムマシンがあるなら、「部活なんてどうでもいいから落ち着いて好きな勉強をしろよ。」って言ってやりたい。

苦悩の27歳

2012年、本当に苦しかった。自動車メーカーに就職すると、工場実習というのがどこのメーカーにも大抵はある。事務職だろうが営業職だろうが設計だろうが実験だろうが、みんな一度は工場の現場で作業を経験する。で、ぼくらの年は異例で、通常は3ヶ月のところ、新商品群のローンチと、経営難のV字回復を両立するするため、「6ヶ月の期間社員の募集を、新卒の工場実習の延長で補填する」という大胆な作戦が発表された。ぼく自身は平気というか、むしろ夜勤ができる分お給料は普通に開発職を1年目の給料残業なしでやるよりも10万円以上多かったので、願ったり叶ったりだったのだが、この発表は同期の多くを混乱に陥れた。彼らをなだめたり、中には外国人勢は「話が違う!」と、辞めていってしまったのだけど、言い出してから辞めてしまうまでの一連の話し合いも、タフだった。

MEET THE CARS の産声


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古賀章成です。自動車開発テストドライバーという仕事をしています。主に、運転を苦手だと感じている人に、安心してもらえるような・自信をつけて楽しんでもらえるような練習の仕方やクルマの在り方を研究・開発しています。頂戴したサポート費は、テストや開発の経費として活用させていただきます。