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カネにならない田舎暮らしのブルース

初夏の田舎はとにかく忙しい。
今は毎日のように畔の草刈りや、田んぼの草取りをしていて、今にもぶっ倒れそうだ。こんなことしてても一銭にもならないのに、ただただ消耗している。

10年前に恵那市に移住して以来、「降りていく生き方」だとか「脱成長」だとかの文脈からとかくもてはやされそうな暮らしをしているわけだが、街中でカネでなんとかなる世界でぬくぬくしてきた身には、その実践は肉体的にも精神的にも応える。
さらに、カネとの縁を切ったわけでもなく、夫婦で事業まで立ち上げて、カネの世界とも全然つながっている。こちらの酸いも甘いも否応なく押し寄せてくる。
そのはざまで生きるようなことをしていると心が揺れ動いてしょうがないのだが、音楽の「ブルース」に通じる一つの境地を見出すことはできた。
一体どういうことか。今回はそんな話をしたいが、その本質はまあ愚痴だ。まずは田舎暮らしの醍醐味、「草」との格闘からご紹介したい。

このnoteでは都会暮らしの筆者が岐阜県恵那市に移住して10年の農村暮らし経験に加えて、30年以上のドラマーとしての音楽経験(仕事レベルで)や登山経験(登山店勤務経験あり)、アフリカでのワークキャンプ、地域おこし協力隊、有機農業、現在は夫婦でEC運営、といろんな畑を歩んできた自分の経験からお伝えできるトピックを発信しています。元岐阜県移住定住サポーター(現在制度は解消)。(所要時間7分。)

初夏の田舎のTo Do 

田んぼの草抜き

田んぼは苗を植えてから1週間も経つと、まだ小さな苗の間に草の芽が生えてくる。この小さな芽の状態の間に、土から掻き出していかないと、1か月も経てば手の付けられないほどに草が土にはびこってしまい、稲の生長を妨げてしまう。

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株の根本の小さな葉がコナギ。田んぼの雑草類でも最も養分を吸ってしまうので、早めの除去が必要。去年これで大減収の目にあった。あとはヒエとかアワとかいろいろ。周りの田んぼには一切の草が生えていない。

雑草など、ぽんと農薬を撒いてしまえばそれで済むのに、わざわざ無農薬で育てるもんで、こんな目に合う。
毎年いろいろ工夫はしてみるも、後手後手にまわりもう手遅れにも思える草だらけの田んぼの中、暑い日差しとを浴びながらずぶずぶと足がとられ、なかなか前に進まずに体力を消耗していく。その足元でオタマジャクシやらヤゴやらイモリやらが行き交う姿を見ていると、ここに農薬を撒くのは忍びない。

家の倉庫に放置されてた昔ながらの除草機。「田ぐるま」とか「田転がし」とか呼ばれてる。水と泥と草の根っこの抵抗を受けるので、きつい。大きい草は手で抜いていく。きつい。

敷地の草刈り

畔の草刈りは全部やり終えるのに丸24時間かかる計算となる。やっと一周終わったと思ったら、最初に刈ったところはもうボウボウだ。
草刈り機の振動は確実に身体に負担をかけてくるが、ボウボウにしてしまうと景観が悪くなるだけでなく、ヘビやハチなどの危険生物が身をひそめることがあるので刈っておかなくてはならない。

ビフォアアフター

昨年は業者に任せることが多かったが、出費がかさんでしまったので、できる限り自分でやるように戻した。
草刈り機もナイロンコードはナイロンの小さな破片をそこら中にばらまいてしまうのが気になって、今年から金属のチップソーを使うことにした。高速で鋭利な刃が回転する危険な代物だ。勾配のきつい斜面も多いので気を抜けないが、暑い中作業時間が長くなると集中力も鈍る。
エビデンスもないのに環境配慮などという自分の美意識を満足させるためにわざわざそんなことをしている。

茶畑の草とり

先日は茶葉の刈り取り前の準備として除草作業をした。これまた大量の雑草が茶葉に紛れて生えてくる。
つる性の草が茶葉に巻き付いてしまうので、若芽を一緒に折ってしまわないよう慎重に取り除いていく。体力も神経も使う。ここにも農薬ぶち撒いとけば済む話なのに、どういうわけだか日本最高レベルの和紅茶アーティスト・ごとう製茶さんがうちの茶葉で和紅茶を仕立ててくれるので、わざわざそんなことしている。

この茶葉の中に大量のつる性の草が紛れているのを見抜けた人は、手を貸してください。

地域のあれこれ

どうにも草の話ばかりになるが、草の伸び具合に比例するがごとく春からはぐんと地域行事も増えてくる。
ようやく消防団は定年で退団したが、自治会での祭事や道端の共同草刈り、神社境内の掃除、保育園のプール組み立て、小学校の資源回収作業などなど。とくにこの年度末には町内会の補助金申請や報告書を作って役所に提出する役だったが、慣れぬ仕事に手間がかかり、商売の時間を割いてしまった。

春先に行う水路の補修作業。

そんなこと自分たちでやるの?と驚かれる人もいるだろう。街中に住めば行政なり何なりがやっておいて当たり前、なんだろうけど、共同作業によって醸成される地域のセキュリティ力など受けている恩恵は目に見えずとも計り知れない。単純にいろいろ困ったときに気軽に声かけて助けてもらえたりとか。
どちらかと言えば個人主義的な生き方の方が心地よいオレにとって、価値観のすれ違いも多々起こるこうした集まりは時に胃が痛くなるが、こういうことに参加せずコミュニティのつながりの良いとこだけ享受しようとする「タダ乗り」はいただけないのだ。

家事とか家事とか家事とか

家の中も忙しい。小2と保育園の我が子たちの通学準備や送り迎え、洗濯や掃除の家事は季節を問わない毎日の仕事だ。どんなに疲れていようと朝起きて、ルーティンをこなしていく。

古民家はやたらと広く、掃除も手が回らない。風情と夏涼しい、という以外にメリットを探すもあまり見当たらないが、壊せばもとには戻らない。

瓦の取り換え時期をとっくに過ぎていて雨も漏る、、、が屋根面積と立地条件で施工費が高くつくので目処が立たない

子どもたちは春から学年もかわり環境が変わって、子も親も慣れるまでに時間がかかるから余計に手がかかる。子どもたちはまだまだ自分の判断に任せられない年ごろだけに、毎日大小何かしらのハプニングが起こり、都度対処する。

こういったことに関しては、誰かに任せるなんていう選択肢はない。整理収納などいろいろ便利グッズなどもあるけど、根本的に楽になるなんて方法はない。
結婚して家族を持つこと自体もはや現代を生きる人間として合理的な選択でない、という向きもあるらしいが、まあ自分のやりたいことだけ考えたらそうなんだろう。もしくは家のすべてを妻に丸投げする夫になり果てるか、だ。

こんな感じでとにかく忙しい。やらなかったら自分の暮らしの環境が荒れていく。まあどれもこれも「わざわざ」手のかかるやり方を選んでもいるから自業自得でもある。
無農薬でコメ育てるのも、草刈りに追われ地域づきあいの濃い田舎暮らししてるのも、結婚して子どもを持ったのも、全部自分の選択だ。
加えて、どんだけの時間と労力をかけているかしらんが、どれもこれもまったくカネにはならない。コメもお茶も売ったところで足が出る。

経済的合理性という面では、ビジネスに長けた人から見ればわけのわからないであろう非合理的行動
いや結構この田舎でもわけわかんないヤツって見られてるぽいぞ。

カネ、カネ、カネ

合理的な判断??

ひるがえって、我が家の家計は、妻と二人で経営している小売通販ビジネスからの収入がすべてだ。
だが通販のおうち需要増加の恩恵も一瞬のこと、それどころか輸入品を扱ってるがゆえに劇的な円安の影響でほとんど利益のでない状態になってしまった。今年に入ってからは情勢不安によると思われる買い控えも深刻な状況。

普通こういうときは、寝る間も惜しみ身を削りながら、一つでも多くの注文を受け一円でも多く儲けるために余計な経費を削って施策を打つのが、当たり前、な行動なのだろう。

しかしだ。商売に集中すればするほど、目の前で草は伸び続ける。家事育児はおろそかになる。これらを見て見ぬふりすれば、確実に暮らしが荒れていく。ならばと暮らしに全振りすれば当然身体もきつくなり、商売へ割く時間も減ってくる。
だからバランスをとるのが大事なのだが、体感として暮らしの方に6ぐらいの割合を当てている方が、その逆よりも気持ちに余裕は出てくる。たとえカネにやや窮していてもだ。(理想は7:3ぐらいにしたい)

こんなんだから、世の中そんな甘くないよ、とよく言われる。今時点での生活費だけでなく、これから子どもにかかってくる教育費とかなんとか費とか、カネでしか得られないことがこれでもかと待ち構えているんだから、と。老後に2000万円必要なんだからと。草刈りや近所づきあいなんてカネにならない非合理なもので金儲けが阻害されるなら、こんな場所は見限って便の良い場所に移り住む合理的な判断が必要だ、と。

「田舎」の商品化??

もしくは、せっかくの自然環境に恵まれているのだから身の回りのものすべてを商品化して、一円でも多くのカネを稼ぐのが賢いやり方かもしれない。
田植え体験、収穫体験、古民家農家民宿、草刈りすらワークショップと称して体験商品にして金を生んでいる人だって実際にいる。

山も川も暮らしも、ぜんぶ商品にできる。うちに来た人たちに、収穫体験や川遊びから流しそうめんまでアテンドするとよく「こんな体験は都会の人だったら数万円出してでもしたいと思うから、商品にしたらどう?」と言ってくれることがある。
でもなあ。経済的には賢い行動なのかもしれないけど、何か気持ち悪さを感じて仕方ない。多分カネにした途端イヤになる。

同じような文脈で、商品にストーリーを付加価値にしてより高価に販売するべきだ、という地方活性化の戦略を耳にする。
でもなあ。ものづくりの経緯とか思いが商品にされるということは、そういうストーリーを欲しているお客さんのニーズに沿えば売れるのかもしれない。でも人はすぐ飽きて次の刺激的なストーリーを欲するものだ。ニーズが廃れたとき、その商品にかかわった人の思いとか地域の歴史とか、そういうストーリーには価値がなくなるのだろうか。それともとどまることを知らない欲求のためにより過激なストーリーを無理くりつくりだしていけばいいのか。金にすることで「消費」された田舎に残るのはなんなんだろう。

それでもカネにならないことを選ぶ理由

まあとにかく、寝る間も惜しんでカネを生み出すことよりも、美味しく安心して食べられて不測の事態にも備えられる米や野菜を育てたり、環境を荒らさないように草刈りしたり、妻と一緒に皿を洗ったり子どもの宿題を一緒に見たり、そういうことを優先してしまう。なんなら未だ上水道ではなく手入れの必要な沢水を引いてたり、薪風呂にしているのも、手間でもその方が「自然」に思えるだからだ。

何を馬鹿な、資本主義社会において大事なのはカネだ、一家の大黒柱は家庭など顧みずとも弱肉強食の資本主義社会における戦士としてカネを稼いでくる背中を見せておけばいいんだ、と言う向きもある。それも一理。
でもなあ。自然の側で暮らしていると、カネにならないことの方がまさに「自然」なことと感じてしょうがない。そういうことのために働いたり活動している背中なら見せてあげたいとは思う。

決して、カネを稼がなくても生きていけて楽だ、という話ではない。
冒頭にも書いたが、心身ともに過酷だとも思う。都会で精神すり減らして働くのとどっちが良いという話ではない。

稼ぐことを否定しているわけでもない。自分でビジネスを立ち上げることで、原価計算や利益率、金利、為替などにかかわらざるを得ず、世の中を動かしているカネのことがどんどん自分事として迫ってくる。これだけ世界中がつながっている世の中で、自分たちだけ関係ありません、なんて顔はできない。

じゃあなおさらカネにもならず大変なことばかりで、何が良いんだ、と言われそうだ。全くなことだ。うだる田んぼの中、草取りに疲れて、気力も体力も尽き、自分は何をしてるんだろうと途方に暮れることもしばしば。

そんなとき。足元でうごめく虫や草や水、空を泳ぐ鳥や雲、新緑の映える山を眺めていると不思議な気分になってくる。
別にこの世界、カネが介在しなくたって動いてるじゃないか。稲はカネもらえるから一生懸命分結するわけでない(根元から枝分かれして茎数を増やすこと)。

これは田植え機。ここら辺では乗用がスタンダードで歩行式はあまり見ない。当然、きつい。

人の社会ではカネは必要だ。嫌いでもない。しかし、カネを生み出す合理性や生産性だけが世界そのものでないことは、金利もなにもない自然を見ていれば明らかだ。カネにつながってなくても自然につながっていれば、衣食住だけに関して言えば「生きてはいける」。

それではまるで無味乾燥な生きているだけの人生に思えるが、そこまで極端でなくても資本主義的なことにとって無駄が多いように見える暮らし方や働き方が生み出すのは、安心だったりつながりと言う言葉でも表せない、言外の感覚として味わうものだ。
それはきっと、共同作業で普段気の合わない人とも汗水垂らしてうまれたお互いを労わるような気持ちとか、
苦労の末なんとか実りをつけた米や野菜を収穫したときの誇らしい気持ちとか、
その米や野菜が並んだ食卓を家族で囲み、美味しい!と喜んでいる姿に居合わせられたときの言い知れぬ気持ちとかに表れてくる、
しいていえば人間として全身で生きている充実感なのかもしれない。人間が原始から抱いていたと思われる感覚に近いのだろう。

世界はどうなるかわからない、ということが明らかになったこの数年、どうしたら今まで通りのことができなくなっても心豊かに生き永らえることができるのか考え自分なりの実践を経てみると、カネだけに頼らないことは大変で面倒だけどカネのことに腐心しているときよりも感情的には豊かだなと感じられるようになってきた。

商売だって非効率とも言えるぐらいの親身な対応や伝えたい想いを大事にしてきた結果、本当にたくさんの素敵なお客さんに恵まれた。結果を求めたわけでなく、単に儲けのために自分たちが嫌だと思うことをやりたくなかっただけだ。

ポスト資本主義、とか、脱成長とかそういうワードも浸透しつつあり、そういう書籍もいくつか読んだけど、あまりそういうワードにとらわれても本質は見えないと感じる。おそらくそういうワードを叫ばれる人たちは、政治とか制度とか、そういうシステム的なことを覆せば、みんな幸せで理想的な社会が訪れると考えていそうだ。

でも、これは暮らしのことだ。自分が生きていく毎日のことだ。カネに頼らず生きていくということは、ときに予測不可能な自然や価値観がすれ違う他人と共に生きるということで、何より自分に頼らなければいけないから大変だ、なんてこと本を読んでも書いてないけど、暮らせば見えてくるものもある。自分で感じて自分で考えて自分で行動する。オレもそれを文章にしようと思ってこうやって書いてみてるけど、力及ばず伝えきれない。

揺れながら、揺れながら

愚痴めいた文章になったけど、そうまでして田舎暮らしとかして何が楽しんだ?と言われそうだ。
だけど、こうやって「揺れている」ことはそう悪いことではない、いやむしろ現代人にこそ必要なことだと「現代の参勤交代」を掲げる養老孟司さんの言葉を聞いて安心した。

世界とは○○だ、と確信をもってしまえば楽なんだろうけど、日々の暮らしを家族とともに全うしながら、価値観を揺さぶられることに出くわせば、あっちかもしれないこっちかもしれない、と右往左往し、かといって前に進むことをあきらめているわけではなく、辛さとか幸せとかが区別なく渾然としてる状態もそれはそれでいつも結論としては、これで良いのだ、と自分で頷いている。

というようなことを妻につぶやいてたら、一言「ブルースだね」と。

ああ、そうなんだ、これはブルースなんだと腑に落ちた。一つのコードの中でメジャーとマイナーが揺れながら渾然一体となって、7thの連続によってどこまでも解決せずに循環する、”あの感じ”になぜか人は魅かれていく。
西洋音楽の白黒はっきりシステム化された理論では説明のつかない、にっちもさっちもいかない状況でも生きていくことを選択した人たちの身体の奥底から唸り出てきた、たまたま手にできたギターで奏でる、誰のためでもない、悲哀とユーモア入り混じる愚痴めいたこのサウンドは、人間の作り出した世界がそもそもそんなものであることの証かもしれない。
であれば、田舎の山奥から鳴らすオレのブルースも誰かに響くかもしれないね。

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