【エッセイ】モロに答えよ。そして黙らせてみよ。

人間にもなれず山犬にもなりきれない哀れな娘。

「もののけ姫」のサンは、どちらにもなれない間(はざま)の存在だとモロは言う。

日本人は特に平均をとりたがる。普通は、普通は、と、よく口にする。
右でも左でもない間を好むのに、居心地がいいのに、サンは哀れだと見られる。


私がまだ子供だった頃、社会問題としてよく耳にしたりテレビなんかでも目に入ってきたのは「男女平等」という4文字だった。
(あと「住専問題(住宅金融専門会社…これ覚えたなぁ…)」)

セクハラという言葉は当時からあったし、なんとなくその言葉の意味も知っていた。
「おもひでぽろぽろ」の冒頭で有給休暇を取るタエ子に男性上司が「旅行に行くの?」だの「失恋?」だのと、タエ子は全く気にしてない風に笑って違いますよとあしらっていたが、あれは今だとアウト。

だが、今はハラスメントの数がご当地キャラ並に多い。
パワハラ、モラハラ、スメハラ……
なんにだってハラさえつければ通用してしまいそうなハラハラな世の中ではなかった。

自分もその一人だったが先生に「あ!それ、差別やー」とその言葉の重みも知らずに軽々しく万能な返しだと多用し悪態をついていた。
「男女平等」は社会の教科書にも載っていたし、それについてクラスで意見を言い合ったこともあった。そういう授業があったことを覚えている。
今この男女平等という4文字に呆れるくらい抵抗感を覚えるのは平等じゃない男女ってそもそもおかしいだろ…って根底にあるからだと思う。

当時テレビ朝日で「ビートたけしのTVタックル」という討論番組があった。(今でも時間帯が変わって放送してるのかな?)
この番組は時代の流れで内容が変化していて高校生の頃には朝まで生テレビのライトバージョンという位置づけだった。今の永田町の国会議員が普通に再現ドラマに時代劇の格好で出演していたのは強烈に覚えている。
アーチ型のテーブルのセンターにビートたけしさんが座り隣の阿川佐和子さんがいたって冷静に気を配らせて進行のアシストをされていた。
あの頃は田嶋陽子さんが女性の地位向上を訴え田嶋さんと衝突した出演者は討論というよりバトルを繰り広げていた。
例えば犬猿の仲らしい舛添さんとのやり合いは名物と化していた。
白熱する討論。ピリついた現場。
その真ん中で無言でおちゃらけるビートたけしさん。
ブチギレるハマコー。
超常現象をぶった斬る大槻教授。いや、UFOはいると譲らない矢追純一氏。
真一文字に口を閉じ嵐が過ぎ去るのを待つ阿川さん。
笑っていいのか悪いのかギリギリを攻める討論バラエティー。
カオスであった。

時代は流れた。

今は女性蔑視や軽視、男尊女卑の枠を越えて男も女も関係なく人として個別の在り方や権利を考える時代。話は二十数年前より幅広くピンポイントにこれが!とか、掴めなくなっている。
水掛け論の討論より言い負かす論破術。
そして、ねじふせるのではなくそれぞれの意見を否定しないで理解する努力の時代。
360度見渡せば尽きぬ問題が絶え間なく押し寄せている。

「それは女性をなめてるからだよ!差別だ!」と、田嶋陽子さんが声を荒らげていた時代は視野がまだ一方向だった。

人間にも山犬にもなれないサン。
どっちにもなれないものになれているではないか。
そう考えればいいのだろうが、やっぱりどっちかにしたがる。
問題はどこにあるのか。
どこが問題だと思うのかもその人次第。それが多様化。多様性。

人間らしい答えだと笑われたアシタカはわたしであなたで、つまりみんなアシタカなのだ。
モロはこれからも笑いつづける。


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