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【エッセイ】パニック障害を盾にしたくなくて

      


 はじめに


僕はパニック障害を持っている。
あえて言う事でもないやと思っていた事が実は言いたくなくて黙っていた事だったなんてことはないだろうか。
それがこのパニック障害にあたる。
なぜ言いたくなかったのかを考えるきっかけは詩とエッセイの書き方の違いにあった。
詩は今まで通りでよかった。
が、エッセイではそうはいかない。
いけなかった。
まだエッセイを書くことへの覚悟が足りないと気づいた。
上っ面で避けては書けないのが本気のエッセイだとエッセイみたいなものを書くようになって徐々にわかってきたのだ。
僕がパニック障害であることを黙ってきたのは都合の良い「盾」にしたくなかったからだった。免罪符ではないが、公にすることで保身や言い訳、極端にいえば同情やひいき目が作品に加味されることがないようにと勝手におそれていたからだった。
が、それがむしろ邪魔になってきたのだ。
その要素を黙らせたままではエッセイの幅が狭くなるとわかってきた。
だから今はじめてパニック障害であると公に記した。

今まで身近な人や限られた人にしか言ってこなかったことの重みはこれからも忘れない。
物書きに多いよねとひとくくりにされたくなかったことも全て僕の偏見にすぎない。
そんな僕の体験を今から書いてみようと思う。

   28歳、パニック障害発症


初めは自分に一体何が起きているのかわからなかった。

ある日突然のことだった。

これらが私の心身に起きた症状の一例である。

●とにかく落ち着かない。
●ソワソワする。
●じっとしていても足を動かしていないとおかしくなりそうになる。
●理由もないのに大きな不安が常につきまとう。
●後ろ髪を突然グイッと引っ張られるように頭を持っていかれ目眩感と全身にブワッと変な汗が噴き出る。
●夜、布団に入ると宇宙の闇か世界の底かに背面を吸い込まれ真っ逆さまに落ちていく感覚に襲われる。
●車の助手席にも乗れず、外回りの仕事が出来なくなる。運転も目眩がいつやってくるか怯えて遠出も出来ない。結果、私は十年ちょっと半径◯◯kmの世界でしか生きられなかった。
●映画館に入れない。
●美容院も無理。
●歯医者で座っていられない。
●エレベーターに乗れない。
●呼吸に意識しすぎて呼吸の仕方がわからなくなる。
●予期不安が消えない(また目眩や発作がくるんじゃないかと不安になって不安感を呼び起こし負のループに陥る)

私は高い場所も狭い場所も暗い場所も本棚に囲まれた本屋も図書館も、トンネルも人混みも、圧迫される場所や自分の意思で逃げられない、拘束される環境になると血の気が引いて酸欠状態になり、意識が飛ぶんじゃないかと不安がよぎり、肩は石のように固まり目眩感や浮遊感に襲われるようになった。

少し変わったものもあって、拘束されること、縛られること(精神的に)束縛されることがダメになったので仕事のシフトも入れられない、友人と約束もできなくなっていた。
会うなら当日連絡が基本となった。

約束したら果たさないとと異様な責任感が空回りしてパニックになるという…そんな理由、わかってはもらえなくても仕方ない。

きっと話しても「え?何それ?」ってことが人それぞれにあると思う。

だからなのか、知りたくて芸能人で同じような病気の人を調べては本人のインタビューや書籍をチェックしていた。
知らなかっただけで芸能人には公表されてる方だけでも多くいらして、あ、自分と同じ症状だ、とか色々心の支えになったのだ。

さて、話を戻して…

今まで「当たり前に」意識もしないでやれていたことがはがゆいけど出来なくなった。
「普通」がわからなくなり、今まで出来ていたことを振り返るとどうやってやっていたのかを考えるようになった。



検査、検査、検査…そして心療内科へ



心療内科や精神科に抵抗があったので、耳鼻科、眼科、内科と検査しに行ったが異常なし。

まだ、この時は体のどこかがおかしいのだと思っていた。そう思うようにしていたのかもしれない。

自分で調べて漢方薬も試したりした。
だが、治るどころか悪化していくあらゆる症状。後に知ったがそれらを不定愁訴と呼ぶらしい。

当時は助手席に乗って二人一組でオフィス機器の運搬や搬入、設置、メンテナンスなどの仕事をしていたが、「自分でもわけわかんないんですけど助手席に乗るの怖くて無理なんです」と、上司に打ち明けたのだが、自分も含めてその場にいた二人の社員もきょとんと戸惑っていた。

無理もない。
当の本人がわけわかんないのだから。

理解のある上司だったので内勤だけに切り替えてくれた。

が、仕事ができる状態ではなくなっていった。



もう、認めざるをえなかった。
心身の心がおかしくなってるんだ…。
私は心の病気なんだ…。
もうこれは心療内科の域なんだ…。
行こう…。
そう決心した。

発症してから3ヶ月後の2012年8月だった。

初めて心療内科に行った日の夜に放送していたドラマを覚えている。
「京都地検の女」の室井滋さんのゲスト回だった。
室井滋さんは糠床をまわしていた。
余裕はないのにそんなことははっきり覚えている。

敷居の高い心療内科へ足を踏み入れるというのはやっぱり勇気がいることだった。
あらかじめメモにこれまでの経緯を書いて万全の準備をして向かった。
上手く伝えなければと緊張していた。
だからその反動でその日の夜は気が抜けたのだろう。
室井滋さんが糠床をまわした日が私の心療内科記念日となった。

(後にわかったことだが、「京都地検の女」の主演、名取裕子さんもパニック障害で苦しんでいた。乗り物移動で発作が起きると居合わせた俳優の阿藤海さんに助けてもらったそうだ)


感じの良くないクリニックだった。
話を面倒くさそうに聞く医者だった。
ロボットのような抑揚のない話し方の医者だった。
こんなのが心の病気を扱う専門医なのか?と、疲弊しきった私はメモを片手に疑問をいだいていた。

あぁ、ハズレをひいたなぁ… 
直感でそう思った。

でも、他の病院を探す気力もなく、そんな選択肢はなかった。
もういいや。薬で少しでも楽になれるなら…。と。

パニック障害と不安神経症、鬱まではいってない…
そんな診断がくだった。

私はそんなハズレ医者からの診断でも内心、ホッとした。
どこの病院に行っても原因不明。どこも異常なしでスルーされていたからだ。
病名をつけられるだけでも変な話だが安心したのを覚えている。
この辛さ、苦しさには病名があったのだと。

そして、私がパニック障害だと書いてこなかったのは詩人や作家は精神的になんらかの疾患を持っている割合が多いと思われたくなかったからと、その病気の名前を出すことで同情と作品に施しの目を付加されるのではないかと勝手に思い込んでいたからである。
それはとんでもない思い上がりで、思い違いであることもわかってきた。
むしろ同じ病気で悩んでいる人に少しでも参考になる話も発信できるかもしれない。
そう考えられるようになれたのはここ最近、つまりエッセイとしっかり向き合おうと思ったことが大きい。
これもひとつの前進、進化なのだ。喜ばしいことなのだ。
だから、今までは限られた人にしか打ち明けてこなかったこの話を私はここではじめて書いたのだ。



薬に出逢う旅



結局仕事は休職することになった。
まずは治療に専念すること。

第一に薬物療法。
が、自分に合う薬にたどり着くまでが厄介だった。

とりあえずは軽めの抗不安薬と類似した粉薬を出された。
最初に処方された薬はとにかく眠気がひどかった。
1日3回、朝昼晩と飲むのだが即効性はあって15分経てば体も心もなんとなく楽になった。
が、眠気が尋常じゃないので薬を絶え間なく朝昼晩と飲めば1日動けない。

日常生活に支障をきたしまくっていた上に副作用のプロラクチンという値が上昇し胸が膨らんできた。
これはかなりショックだった。

性格ももともとボケーッとしていたのに拍車をかけてぼんやり、とろーんとなっていた。

どうやらホルモンに関係している薬だそうで、稀に出ると注意書きされていた副作用が如実に出た。
稀に…は、なぜこういう時に発動するのか。
その確率をもっと発動してほしい場面で出ればいいのに…。

これはいかん!とすぐ薬を変更してもらった。
胸の膨らみも元に戻った。
数ある薬を試すことを数回、なんとかこれかな?と思える着地点を見つけた。

薬物療法と並行して調子のまぁまぁ良い日は(少ないが)用もないが高いビルのエレベーターに乗ったりして訓練した。

長い目で一年、一年、回復はスローペースだったが再起する為に諦めず頑張っていた。

薬を十年以上飲みつづけることになるなんて振り返ると少しゾッとするが、そんな通院生活を続けてきたのだ。

が、39歳の春(今年の春)、それは突然やってきた。

惰性で通いつづけ、薬を減らしたいと申し出ても減らすと悪くなるかもよーと、何度も流され、気分屋の医者から心療内科に通院している患者に対して言ってはいけないような無神経なことを言われつづけてきた過去の蓄積された不満は慢性化していた。

きっと潮時だったのだろう。
その日もはじめから不機嫌だった医者のいつにも増して適当な返事、対応、態度。
疑問に対して脱線したチンプンカンプンな答えを繰り返す医者。
全く納得いかない私は同じ質問を繰り返した。

すると、
「医者に対して何て口を聞くんだ!失礼だろ!」

と、逆ギレされ大声で怒鳴られた。(他の患者が待合室で固まっていたことを後でこの目にすることになる)

医者の言うことに逆らうな。反論するな。黙って言うことを聞いてればいい。

その、医者の本性が剥き出しになった。
ちっぽけなプライド。採血さえろくに出来ないくせに。

私はもう無理だと悟った。

私は呆れて無言で診察室を出た。
その日でそのクリニックとは決別した。
遅すぎるくらいだった。

そんな三分間診療の薬だけ出してもらうハズレ医者のクリニックでも十年ちょっと通っているうちに日常生活、社会生活もすっかり、ほぼ問題なく過ごせるようになっていた。

残るは減薬の課題。(私は何年も前から希望して相談していた。相手にされなかったが)

私は違う病院をすぐに探して今は少しずつ薬の量を減らせている。
私は服薬しない生活を目標にしていた。
これがしたかったのだ。
こちらから伝えても却下され、反対に不安を煽られていたあの日々は何だったのだろう。
減薬は難しいことではなかった。




  十数年ぶりの県外、新幹線、東京



2022年10月、私は意を決して挑戦してみた。

不自由に制限されていた十数年。

詩集を置いてくださったりと数年前からお世話になっている東京の世田谷区豪徳寺にある出版社で書店の七月堂さんへ足を運んで挨拶したかった。
ずっと願っていた。

そして、今なら行ける!
そう思えたのだ。

東京遠征当日。
金沢駅の新幹線ホーム。

北陸新幹線が開通したのに当時はテレビで自分には新幹線乗るのは無理だからと諦めて眺めていた。
そんなことを思い出していた。

緊張はしていた。
列に並んで待っていた。
アナウンスが流れた。
青と白と金色のラインのかがやきがやって来てドアが開いた。

わたしを東京へ連れてって、かがやきよ。


チケットを何度も確認した。
自由席。
新幹線の匂い。
通路側。
後部席に座る。
新幹線は動き出す。

大丈夫……大丈夫……

自分に言い聞かす。

中森明菜と中島みゆき、梶芽衣子の歌をウォークマンで聴いて窓の外の景色を薄目でゆっくり見た。

〽少し不安よ


〽因果な重さ見つめて歩く

大丈夫……大丈夫……

中島みゆきの「誕生」という歌が流れていた。
私の目からも涙が流れていた。

泣くよね。


やっと、ここまで、きたんだ。

富山…長野…上野…東京。

人混みの地下鉄。
目的地、豪徳寺。

私はすれ違う人に同化していることが嬉しくてたまらなかった。
普通に人混みの一部になれている。

遂に念願の七月堂さんへ…

この日、私は長くて暗いひとつのトンネルから抜けた気がした。

今までの遅れを取り戻すんだ。
そう、心で呟いた。


キターーー
このグリーンのソファにずっと座りたかった。
叶いましたよ。





    恐怖の二文字、「遺伝」



一難去ってまた一難ではないが、それにまだ心療の方の薬も完全に去ってはいないのだが、まぁまぁいい感じで減薬の生活へと歩んでいるところに、「遺伝」という抗えない二文字が立ちはだかった。

私は173cm59kgの痩せ型である。
パニック障害のどん底の時は体重が50kgをきったこともある。その時は本当にこわかった。命の危険を感じた。

もともと昔から食べても太れない体質だった。
それでもそれなりに食べてるのに体重が減っていく恐怖。
そんなこともあり体重を見るのが怖くて私は体重計に何年も乗らずに生きてきた時代があった。

十年ちょっと前から服薬しているので3ヶ月毎に血液検査をしていた。薬を常に服薬している人は肝臓の値など諸々を検査しなくてはいけないのだ。

30代前半から善玉コレステロールの値が基準値すれすれに低かった。
まぁ、基準値内ではあるから…と、様子を見続けて何年もきたのだが、とうとう基準値を下回った。
悪玉コレステロールも基準値上限ぎりぎり。
この高低差はよろしくない。
脳梗塞や心筋梗塞などの危険が高まるのだ。

とはいっても運動も食事も自分で言うのもなんだがかなり徹底している。
むしろ体重を増やしたいくらいだ。

なのに、数値がよくない。
薬剤師さんとも相談して色んなことを試しては血液検査を繰り返した。
それでも善玉コレステロールが改善されない。

「脂質異常症」


内科の先生からそう診断された。
かつては高脂血症という名前だったらしいが、私は生活面での問題はないのにどうしても改善されない「遺伝性」のものだという。

言われてみれば、父方の家系は脳梗塞など血管系で亡くなっている人が多かった。
母方の家系は高血圧、心臓疾患の人が多かった。
どちらにしても納得せざるを得ない「遺伝」である。
嬉しくないサラブレッドである。

遅かれ早かれ善玉コレステロールを上げる薬を飲むことになるだろう。いや、飲まなきゃいけなくなる。

心療内科で飲み続けてきた薬をやめられても、また、別の薬を飲み続けなければならない。一生。




     火葬場での出来事



私は薬を飲まずに天寿を全うした人を幸運だと思う。

私の大好きな母方の祖母は森光子と同じ生まれ年だった。

その祖母が数年前に亡くなった。
涙が枯れるまで泣くとはあのことだった。
それでもよく涙が出るなというほど涙が出た。


森光子より長生きした祖母が火葬場で燃やされて骨となって私たちの前に戻ってきた時、火葬場の従業員が骨の説明を頼んでもないのにしはじめた。
饒舌にマニュアル通りに、少し自分に酔った話術で。

私の大好きな祖母の骨を指さして「この部分の色は癌細胞の痕です」とか、「このように骨が細くて脆いのは薬のせいです」とか言う。

「ある別の方は薬を一切飲まずに大往生されましたが、その方の骨は太くて綺麗な形でした」と。

憔悴しきった私の鈍くなった脳に怒りの電気が走った。

どこの誰かも知らない人の骨と大好きな祖母の骨を比べるな!と、心で叫び睨んだ。

骨になってまでなぜ祖母は他人と比べられなければいけなかったのか…
今でもわからない。腹立たしい。

祖母がどれだけ苦労して森光子より長生きしたか、毎日骨の説明をしているお前なんかに何がわかるというのか。

私は心療内科の薬を十年ちょっと飲み続けているが時々ふとこのことを思い出す。

私も結局死ぬまで何かしらの薬を飲み続けていかなければいけないから、死んで燃やされて骨になった時、綺麗でもなく、細くスカスカで、骨壷に選別されて入れられるのだろうか。

そして、死んでもまだどこの誰かも知らない人の骨と、わかった気になった知らない人に説明され比べられるのだろうか。

畳の上で家族に見守られ人生を終えられる人はある意味では幸せかもしれない。

今は病院で息をひきとる人が多いし、病気にならずに大往生なんて一握りどころか一摘みなのではないだろうか。

私は十年ちょっと服薬している心療内科の薬を減らし薬なしの28歳前のあの頃を目指してきたが、その考えを捨てよう。と、思った。

もちろん今の薬なしで生きていきたいから努力は続けるが、また別の薬を飲まなくてはいけなくなったとしても受け入れよう。

大病を乗り越えてきた大好きだった祖母も森光子より長生き出来たのだ。

舞台「放浪記」ででんぐり返しをし続け「渡る世間は鬼ばかり」で岡倉大吉の姉役として最後まで若々しく年齢を感じさせない大女優だったあの森光子より長生きしたのだから。

スクワットだって祖母は出来なかったし、自転車にも乗れなかったけど、祖父の分まで長生きしてくれたのだ。


燃やしても何も残らずとも、誰にも拾われずとも。
私は祖母の背中を追って生きねばならない。


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