男女は“違う”からうまくいくのか?
梅雨が明けたはずなのに梅雨のようなお天気が続いていたりしますが、晴れた日はもう夏本番です。
子どもたちは夏休みの季節だし、リゾートで夏気分を味わいたい風情ですが、またコロナが拡大しつつあるのでなかなか遠出もできない週末ですね。
夏といえば、恋の季節。シングルの人は彼氏や彼女と燃えるようにギラギラする夏を楽しみたいですし、既婚者も夫婦でちょっとした旅行や行楽を満喫したいのが人情。
でも、悲しいことですが、最近私のまわりでも離婚した夫婦や悩みを抱えている夫婦、喧嘩ばかりでうまくいっていないカップルがかなり多いような気がします。
東京や大阪などの都市部では年代を問わずにシングルで生活する人が増えているご時世ですから、必ずしも結婚して家庭を築くことが幸せとは限らない価値観の人も増えているのは間違いないと思います。
お友達や同級生などと話をしていて、最近思うことがあります。
男女は、“違う”から惹き合ったり、つき合ったり、結婚したりするのでしょうか?
一般的には、そうだと受け止められている場面が多いと思います。
男性と女性とでは、平均的にいえば、体格が違うし、腕力が違うし、出産は女性しかできないし、やはり仕事の適性や性格面でも違いがあることが多い。
生まれながらに違う部分を持った男性と女性が、子育てから始まって学校教育にいたるまで、昔ほどではないにしても、男子と女子に分けて向き合って育てられてくることを思えば、やはり男女はそもそも異なるし、さらにその違いを生かして異なる成長の仕方を求められてきているともいえるでしょう。
街中を歩く子どもや学生たちを見ても、男子は男子と、女子は女子とグループになって行動する姿が多いですし、特に思春期の男女が気軽に同じ時間を過ごすことには、抵抗感を感じるケースも少なくないように思います。
男性と女性が惹き合って付き合いはじめ、将来を誓って結婚して夫婦になると、やはり夫には夫の、妻には妻の役割が求められるようになります。
今はダブルインカムが当たり前の時代であり、男性の育児休業なども推奨されるご時世ですから、かつてのように、夫は稼得労働のみに専念して、妻は家事・育児のみに専念するという夫婦は少なくなりつつありますが、それでも、やはり夫と妻に求められる役割は違うというのが、一般的な社会通念だと思います。
時代は移ろい変わっているとはいえ、夫が頑張って仕事をして相応を収入を得て家族を養う姿に共感し、妻が家庭にあって家族のために家事や子育てに勤しむ姿に共鳴する人は多いでしょうし、多くの人は無意識のうちに安心感を覚えるような気がします。
それでも、女性の社会進出が求められてフルタイムで働く人もどんどん増え、男性の家事や育児への参加が期待されていわゆるケア労働への役割が無視できなくなりつつある時代。
私のまわりで離婚したり、離婚を考えている人の悩みの多くは、夫婦の性格の不一致です。
結婚したときはこんなはずではなかったのに、今では相手はちっとも自分のことを理解してくれない。
夫は家事や育児になかなか協力してくれなくて、仕事しながら子育てしている自分はとにかく疲弊している。
妻は仕事に追われる日々の現実を理解してくれなくて、家庭でのストレスばかりをぶつけてきて困る。
こんなふうに悩みを打ち明ける夫婦が本当に多いと感じます。
きっとあなたのまわりにもいらっしゃるのではないでしょうか?
私は思うのですが、結婚して夫婦として家庭を築いてともに人生を歩む前提として、今までは男性と女性は“違う”からこそ夫婦になる意味があるという発想が根強かったのではないかと思います。
“違う”からこそ、夫は家庭を顧みずに寝食を忘れて家族を養うために仕事にのめり込み、妻はどんなに辛いことがあっても決して自暴自棄にならずに家事や育児の責任を担い続けていく。
このような発想は決して間違っているとは思いませんし、そもそも男女が何がしか異なる属性を持つ存在である以上は、異なる役割からともに支え合うことの意味やメリットは大きいかったのだと思います。
ただ、これが根本的に相容れない程度に“違う”存在だという前提を置いたり、“違う”存在であるがゆえに決して相手の領域に踏み込んではならず、自分の役割分担のエリアから一歩も出てはいけないとまで仮定すると、ともすれば過剰な役割分担論の弊害の方が目立つことにもなるような気がします。
もちろん人にもよりますし、家庭のあり方にもよりますが、夫は夫、妻は妻という古典的な役割を大胆に無視して、フラットな関係で“友達夫婦”のような関係で家庭生活を送っている人で、喧嘩もすることなくうまくいっている例も最近よくききます。
かつては男性は仕事向き、女性は家庭向きと単純に類型化される傾向が強かったといえますが、逆に夫が家事や育児を頑張る姿に新鮮な感動を覚え、妻が家族のために働く姿に人間的な共感を抱くというパターンも少なくないのではないでしょうか。
夫は○○、妻は××というふうに役割を固定化すると、お互いに経験値が蓄積することでパフォーマンスが良くなっていくというメリットはありますが、逆にいえば自分の役割は果たして当たり前だともいえるので、相手方への感謝や愛情が薄れて行ってしまいがちというデメリットもあります。
人間は感情の生き物ですので、どうしても仕事ばかりしている人は家事や育児への共感力は薄くなり、家庭責任ばかり果たしている人は仕事に専念している人の気持ちが分かりづらくなるのではないでしょうか。
男女は、“違う”からうまくいくのでしょうか?
かつてはこの問いにあまり疑問をはさまずにYESと答える人が多かったと思いますが、今の時代はもうちょっと複雑なのではないかと思います。
夫が中途半端に料理や掃除や子育てに手を出されると、かえって面倒なことになるから困る。
妻があまり仕事を頑張りすぎて自分の収入を超えるようなことになると、夫としての立場がなくなる。
こんな声も、しばしば耳にします。
でも、こんな悩みや葛藤は、丁寧に相手の理解を得る努力を重ねていくことで、解消に向かうケースも少なくないのではないでしょうか。
夫が家事や育児を担うことは悪いことではありません。それどころか、同じ家族として家庭責任を果たすことは、ある意味当然のことだといえます。
妻が努力して経済力を得ることは悪いことではありません。逆に、夫婦の将来のリスク管理からすればメリットしかないことだといえます。
これらが本質的にはプラスの志向性であるにも関わらず、うまくいかない例が少なくないのは、単純にコミュニケーション不足なのではないでしょうか。
今までの慣習や常識にとらわれるあまり、夫婦の本来の絆や信頼関係の中で、トコトン相手に心を開いた言葉を交し合っていないから。
私は、そんな例がけっこう多いのではないかと思います。
男女はもちろん“違う”からこそ意味がありますが、それを磁石のS極とN極の違いのように考えているとしたら、やや理解が飛躍しているのではないでしょうか。
男性の女性との違いは、しばしばグラデーションに譬えられます。
男性は男の要素が大きいながらも女の部分も併せ持ち、女性は女の要素が大きいながらも男の要素も併せ持つ。
こんな理解を前提にお互いに相手のことを思いやっていけば、多少のすれ違いや喧嘩が起こることはあっても、根本的に相いれないということはかなり少なくなるのではないかと思います。
男女は“違う”からこそうまくいく要素もあるけど、同時に“同じ”であるからこそ共感し合い、支え合うことができる。
こんな仮説をもって歩んでいけば、世の夫婦やカップルの関係はもっともっと良好なものへと深化していくのかもしれません。
少なくとも、そんな可能性を信じて、“男”や“女”という縛りは少しは緩やかにとらえていった方がよいのではと思ってやまない今日この頃です。
学生時代に初めて時事についてコラムを書き、現在のジェンダー、男らしさ・女らしさ、ファッションなどのテーマについて、キャリア、法律、社会、文化、歴史などの視点から、週一ペースで気軽に執筆しています。キャリコンやライターとしても活動中。よろしければサポートをお願いします。