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『遺書』 59 私の孤城

[前回からの続き]

避難先にするマンションの購入契約。もしかすると一生涯に一度で終わるかもしれない、不動産購入。この“フツー、住むところではない”部屋が、“ついのすみか”になる、その覚悟もあった。けれどできることならば、数年くらいで“フツーの暮らし”に戻りたい、戻れるんじゃないか、そんな、甘いけれど、ほのかな望みも棄てきれないでいた。

代金をATMで引き出した。東京から持ってくるのは危ないから、銀行に預けて現地で引き出すことにしていた。めったに持つことのない量の札束。
現金払い。小銭もピッタリ用意した。

同じ店舗で、だけれど今度は、1階のオープンスペースではなくって、2階に通された。契約のときには関係者だけになれるよう、専用の部屋があるらしかった。
司法書士は、高齢の男性。
宅建の彼と、改めて重要事項説明と契約内容の確認。管理組合に出さないといけない書類のこととか、管理費・修繕積立金の振込先口座とか……。
サインして、代金を渡す。金額が合っていることを、司法書士のおじいさんも手ずから確認した。
現金一括で不動産売買っていうのは、きっと、フツーではない。けれどなにより、物件がフツーではない。そして金額が“激安”……。自動車を買うくらいの金額。
鍵が渡される。
契約成立。

不動産会社の社長がやってきて顔を出して、私に挨拶だけしていった。
「何かあったら御連絡ください」
名刺を渡していった。

“何か”――
フツーだったら、リフォームの相談とか、私も事業主ではあるから、ビジネスの人脈だとか、そういう意味だと考えるだろうと思う。
けれど、この物件は、違う。“何かある”かもしれないのだ。

「やっと片付いたね」司法書士が言った。「あといくつ残ってんの?」
どうやらこの司法書士、この不動産会社とは長い付き合いらしい。このマンションの往時のことも知っているらしかった。
社長は部屋番号を答えていった。例の、破壊されている部屋の番号もやはり、含まれている。売らないままにしておかないといけない部屋をいくつも、抱えてきたらしかった、このマンションは。

けれど誰も、このマンションで具体的に“何が”あったのか、決して言わない。

――言えないのだ。
言っては、いけないのだ。

社長は忙しそうで、司法書士にも一言そう詫びを入れ、さっさと去っていった。

こうして私は生まれて初めて、家を買った。中古マンションだけど。“何か”ある部屋だけれど。

店を出て、買った部屋に向かう。

登記は司法書士がしてくれるからいいとして、この部屋が私の所有になったからには、やることがたくさんあった。
まず、役所に転入届を出すこと。買ったその日に住民票を移すことにしていたから。急がないと、役所の開庁時間が終わってしまう。
電気はすぐ使い始められる――わけではなくて、なんとメーターが外されているので、北海道電力(ほくでん)に電話をして付けてもらわないといけなかった。それは水道も実は、同じで。
そして、部屋の掃除。一日も早く、ここに引っ越さないといけない。

ガランとした部屋。ここが私の“城”に、シェルターに、なる。

そしてその日の夜遅くに、東京に“とんぼ返り”をした。

ところでこの部屋。

きっと――

元暴力団事務所だ。

[次回に続く]


今日は黄砂もあり、いつものことながらではあるが今日はなおさら具合がよくないので、ここで区切る。ちょっと短いけど……。
全部で60回とか2か月とかでみていたのだけれど、身体のこともあって短い回が多くあったので、それでは済みそうにない。
父親とその家のこと中心の流れで書いてきたけれど、私にはほかにもさまざまな問題を抱えさせられている。例えばイジメの話とか大幅に省略して少ししか書いていないし、アレルギーとか身体の話はしていない。そうした話は多すぎて、書く余力もなければ、書くのはツラいし、プライバシーだし、「話長い」と怒られるのも目に見えているから。