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『遺書』 53 2対1の、自衛戦争

[前回からの続き]

「警察を呼ぶ」
そう私は宣言して、電話で通報した。

はたして向こうは想定していたのか、それとも焦ったか、私には分からない。

ドアスコープの穴は破られたまま。
ちなみに、ドアスコープから覗かれるのを防止するために内側から付けていたカバーも、破壊されている。器物損壊なのも分かっていて、彼らはやったのだ。
一触即発、それは変わりない。

警察に通報しているあいだ、扉の向こう側でどんなやりとりがあったのか、私には分からない。そちらを聞いている余裕なんてなかったのだから、いうまでもないと思う。

そこに居るのが人殺しだと知らされて、どのような対応をしていたのだろうか。
私の言うことを信じなかったのかもしれない。
あるいはその男が人を殺めたことは認識したうえで、なんらかの事情があるのだろうと、自らの危機を否定するような正常性バイアスをかけたのかもしれなかった。

警察と長々と話している暇なんてないので、手短に話して一方的に切った。私の“住所”はもちろん知らせた。
警察が来ることに、そして警察が味方になってくれることに、ほんの、ほんの、わずかながらの希望を。棄てずにもちつつ――。

再び、たかが玄関扉一枚、“盾”というより“薄氷”。“薄皮”を隔てた防衛戦が続く。

「賃貸物件だからカギを替えたらいけないことになっているんだ」
ヤツはいまさら白々しく、自分がしてきたことを棚に上げて、私を小馬鹿にした。
そこに管理会社の人間とかが居るので、白々しく演技を続けなければならなかったのだろう。
けれどそれ以上にヤツは、私を、蔑んでいる。いや、私に対してだけではない、およそ目下と思われる人間に対しては片っ端から蔑んで、反対に目上の人間には媚びる、そういう卑劣な輩であることを、私はイヤというほど、死にたくなるほど、知っている。
というか、死ぬ以上に痛々しい立場で、生き抜かなければならなかったのだから……。

決して、この男を中に入れてはならない。
この“薄皮”を破られてはならない。
ヤツに連れ戻される、というか、連れ去られる、そういうことになれば、私は母と同じように殺されるか、死に追い込まれる。少なくとも、母と同じように向精神薬づけにされるのは目に見えていた。
同じ過ちは、繰り返さない。母の死を、ムダにしない。母のぶんだけ、私は生き抜かねばならない。それが母への報い――。

この場で侵入されないで、追い出されないで、連れ去られないで、なんとかかわせたら……。
避難先の手はずは付きつつある。九死に一生。首の“皮一枚“。

私は護身用に、片手に包丁を手にしているけれど、そんなもので助かるとは思っていない。
それ以上に、ここで突破されれば、気が動転して人を刺してしまうかもしれない――そうなりそうな自分が怖ろしかった。

そう。突破されたら、オシマイ。

幸い、向こうの目的はそれぞれ、違っている。
妻を殺したこの、私の(イヤでも戸籍上は)“父親”と。
貸主・管理会社側と。
ヤツは私を自分の手元に連れ去りたいのだから。
貸主側は、この賃貸借契約を“片付けたい”だけなのだから。

貸主側の面々をとりあえず納得させて今日のところは帰せばいい。日にちの猶予さえ得られれば、私は生き延びられる――

[次回に続く]