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自分はどうしたいのか?

今自分はどういう立ち位置にいるのかが、
気になって仕方ないこの頃。
ちょっとした人の表情や、反応に、やたら敏感になっている私です。

父が、自分自身の劣等感が原因で亡くなったのだとしたら、人の態度に一喜一憂する自分自身の弱さが、身を滅ぼすくらい大変なことだとわかるはず。

けれど、幼い頃に感覚の奥の奥に染み付いてしまった反射的な感情は、スッキリと改善できるものでは無いようです。

ハズレもの

幼い頃から、いろいろなところから『ハズされて』いました。

小学校の低学年まで病弱で、よく熱を出して寝込んでいたため、近所の友達と遊ぶ機会も少なく、昼間でも薄暗い離れの部屋で天井を眺めて過ごしていた記憶があります。
看病はたいてい、祖母。
熱を出すと祖母が呼ばれ、隔離された部屋で、私の看病をすることになっていたようです。

就学前の記憶は、家族で団欒したことや、友だちと楽しく遊んだことは、ほとんどなく、高熱にうなされて、怖い夢を見たり、外でみんなが遊んでいる声や居間で家族が話している声を聴きながら、1人寂しく離れで横になっていた記憶ばかり。

小学校に入ると、妹とケンカすることが増え、その度に母から「妹をいじめるんじゃない!」と叱られて引き離された記憶が強烈に残っています。
ケンカをしてしまってから、「わたしは妹をいじめる悪い姉だから、家族のみんながわたしのことを嫌うんだ」と反省する。
けれど、妹の生意気な態度にまたカッとなり、また叱られる。きっと自分はどうしようもなく意地の悪い人間なんだ、と思い込むようになりました。

家族でも、近所でも、学校でも、『みんな』の中にいることを拒まれた経験ばかりが思い出されます。

まだほんの2歳ごろから、過剰な躾をされてきて、自由に遊ぶことを制限され、
熱を出すと家族から隔離され、近所の子たちと交わって遊ぶことも少なく、
小学生の頃は妹をいじめる悪い姉として家族から疎まれ、
いつも何かしらの理由で『ハズれもの』だった。
やがて、人の輪に入る時、本当に入って良いのかな?とお伺いを立てるような、遠慮がちな態度を取るようになっていきました。

もともと自己主張できない(自己主張すると叱られる)性格に加え、自己主張の方法が不器用なので(家族には強引な態度を取る、一方で他人には言いなりになってしまう)いつも集団の中で浮いてしまう。
そしてますます、集団の中にいるのが怖くなり挙動不審な行動を取るため、どんどんハズれていく。

社会性というのは、乳幼児の頃に自分に自信を持つ体験をたくさんして、いろいろな仲間の中で自己主張する体験をたくさんした先に、身につくものだということが、よくわかります。

いくら『人の気持ちを考えて行動しましょう』と教えたところで、自分を素直に表現する方法を知らなければ、材料も無いのに美味しいカレーを作りましょう、と言っているのと同じことなのです。

我が子たちは、それぞれの場所で、それなりの人の輪の中に入って、それなりにやっています。
楽しいこともあれば、トラブることもあり、落ち込んでいることもありますが、自分で上手くリカバリーしながら関係性を築いています。

それが当たり前の人間関係なのでしょうが、私の場合は、内心にものすごい恐怖が渦巻いていて、常にびくびくおどおどしながら、人の輪に入ったり、入らなかったり……。 

未だに幼少期に、さまざまな人の輪からハズれていた寂しさや虚しさが、実感として湧き上がってきてしまうのです。

孤独の寂しさは、物理的に孤独かどうかとは、ほとんど関係ありません。
そのほとんどが、自分の中の幻想で出来ているんだと思います。

大勢の人に囲まれていても、孤独な人は孤独だし、
一期一会の出会いを繰り返しながら旅をする人でも、一度出会った人とは、すべて繋がっているような充足感を得られる場合もある。

人を信じる
そのまえに
自分を信じる

やはりそれがすべての基本なのでしょうね。

どんな自分であっても、
それ以上でも、それ以下でもない。
無理な幻想を抱く癖をやめないと始まりません。

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