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こんな時代だから『哲学』に足を突っ込んでみた。Part3・近代編【神っているの?結局自分に気付き始めた。大事なのは神?人?】

続きは近代。この時代には、宗教戦争自然科学の発達で、キリスト教の影響力というものが弱まってきた時代。宗教は全く否定しないので誤解して欲しくないが、カトリックやプロテスタントがバンバンぶつかる世の中だったらしい。余談だが、両者の違いは分かりやすく伝えると以下だ。

生涯独身のローマ・カトリック、結婚OKのプロテスタント

※これで宗教を変える人もいるぐらいだから、到底日本人には馴染まない

『え?一体どっちが正しいの???どっちも正しくないんじゃない?』という風評が広がる間に、”自然科学”の発達で、
『ん?まじで神がこの世を作ったのか?』となったわけだ。それが、近代哲学。

大切なのは神か人か

時代の常識であったはずの神と、それを疑う人間の哲学。ここからが現代に繋がっていく話なので面白い。


⑤デカルト(我思うゆえに我あり)
意味がわからない。が、これは数学者としてのデカルトらしい言葉なのだ。小学生の頃に、x軸y軸を習っただろう。あの時の座標のことを”デカルト座標”という。そう、この人は数学者であり、哲学者なのだ。
うまく伝えきれないかもだが、デカルトの概念を記そう。キリスト教の世界観は神が善と悪を決めている。が、デカルトは、善い事・悪い事は実は神が決めているのではなくて、自分達で判断しているのではないか という事を考えた。これが”理性”。善悪は人間の中にあると辿り着く。そんな中で、哲学とは 疑問 だから色々疑ってみる。

自分たちってなんだ?全部夢かもしれない

例えば、悪魔が今、夢を見せてるかもしれない。でも、悪魔が夢を見せている状態だとして、自分がいないと悪魔は夢を見せる事が出来ない。それを”悪魔が見せている”と認識している自分存在している という事に、ある日気づいた。それが我思うゆえに我ありだ。


⑥カント(道徳論・法論、定言命法)西洋哲学は、神から人間へ思想が変化していく。この時代には、理性で行動を決定することこそが”自由”ということになっていく。これまでのように、神に決められて行動しているのではなく、自分達の意志理性で行動を選択している。その選択の自由を持っていると認識され始めた。
例えば、眠い・お腹空いたから食べるといった自然法則は、自分達の意識ではなく、神の仕業、神がそのように人の身体を作ったからだと考えられた時代。
だが、実は神の仕業ではなく、その神の意志とは関係ないこともするし、関係ないことをやらないことも選択出来る。その理性と、そう自分自身に決めている道徳に基づいて行動することが”自由”なんだと定義付けた。
○●○●だから、〜〜する というのは良くない。腹が減ったから飯を食うとか、得になりそうだからあいつに良いことをする、というのは、神が決めた自然の摂理のようだ。
ではなく、
自分の中にある道徳が、信じてその行動をとる ということを提唱した。これが定言命法だ。今の時代からみると少し極端かもしれないが、その時代時代で判明していることの範囲の話が哲学だから、若干違和感を覚えるだろう。特にカントはソクラテスと違い、欺く嘘さえもつかない人物だったそうだ。
⑦ヘーゲル(弁証法、相互承認)
カントが自分との考えに固執していたことに対して、ヘーゲルは『他者との関係』だと説いた。人と話し合いをしましょう ということを”弁証法”というが、人によって見え方が○or△があるとする。見え方は人によって違う。
一方では○、一方では△だ。だが、いや『円錐』かもしれないということにもし気づくことが出来たら、より高い次元に進むことが出来るじゃないかとヘーゲルは考えた。
お互いの違い矛盾を話し合って、妥協できるところや辿り着ける場所はもっと上のところかもしれない。自分の中の理性と相手の理性を、話し合いすることで相互承認をしていこうと提唱したのだ。
宗教戦争の背景では、国家というものが大きく変化していた時代。ナポレオンの革命の時代。ドイツが統一した時代。
それまでの、”神”が世界を安定させてくれるのではなく、自分達の中に答えがあるという、内面に意識がフォーカスされた時代。
この頃になると、心理カウンセラーとしては心理学の話にも紐づくのでワクワクしてくる。古代や中世と比べると、だんだんと人として、そして現代の考え方に変わっていく。これが近代の哲学。神から人への変遷の時代だ。
次回はラスト、現代哲学だ。いよいよ哲学は、人間から個人の時代に突入する。見逃すな!

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