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森活 天然の瞑想を生活習慣にする


森へ行き
落ち葉を踏む音を聞きに行く

池に張った氷を眺めに
雨の音を聞きに
鳥の声を聞きに

素敵なインスピレーションを拾いに

ただ何者でもない自分になるために

昨年、私の生活習慣のひとつとして森活を取り入れました

ただ、誰かの呼吸さえも聞こえない様な
この地球には自分たったひとりしかいないのだと錯覚する様な森の中へ行き
気の許すまで、時間の許すまで
そこにいると言うだけのこと

日頃から、私はこんな自然の中でたったひとりになれる森活スポットをいくつも隠し持って生きています

これが、今まで何度試しても上手くいかなった瞑想を天然の瞑想として生活習慣に取り入れた自分独自の瞑想の形です

瞑想が上手くいかなかった理由


瞑想の目的というと何を思い浮かべるでしょうか?

本当の自分に会いに行くとか、思考の整理とか
反芻思考を止めることとか

世の中の瞑想をする理由のどれをとっても瞑想の全体像と言うものは見えてこない様に私は思っていました

そしてそれこそが私が何度瞑想を試みても上手くいかなかった理由

私は、物事の全体像を捉えてから
自分に合った形に再度組み直して物事を習得する癖があり

私にとっては坐禅を組み目を閉じ、思考を空にすると言う一連の流れをもっと自分に合った形で効率良く出来るのではないか?とどこかで思っていたのです

だからこそ、全体像をまずは掴む必要があったたので
何度、既存の瞑想の一連の流れを試したところ上手く出来ないと言う事が起こっていたのです


瞑想とは


瞑想とは何か?
その答えは、自分に合う生活スタイルを少しづつ追求して行った中で自然と見つけることが出来ました

それは、言葉にするのは少し難しい事
だから、どの情報もふわふわとして掴みどころがなかったのかと言うことを理解しました

でも、もしそれを簡単な言葉にするとしたら

全ての一部になり
自分と言う存在を越えると言うこと

花があり草があり、虫たちが飛び動物たちが身を潜める森の中で
どの生物も自然の摂理に従って生きています
瞑想とはその一部になる事だと思っています


私は森活をする中で
冬の寒空の下で、鈍い体を引きずっている可哀想な虫を見て
そんな殺伐とした自然の摂理と言う意味は何のかを理解した気がしました

弱肉強食という言葉には、色々な人間ならではのイメージが付き纏いますが
本来はそこには何もないと言う事こそが自然の摂理なのではないかと

つまり、私は目の前を今にも倒れてしまいそうなこの弱りきった可哀想な虫を
この手で簡単に潰し一つの命をこの場で消してしまう事ができる

それなのに、目の前の虫はそれを容易いに受け入れて生きている

自然の摂理とはそう言う事で
瞑想とは、それらの全てを受け入れた生命の一部になると言う事だと私は思いました

それは、社会性を持ち生きる人間の姿とは別のもので
生物や宇宙の一部としてあるだけの人間の姿だと私は思っています

社会性が動物既存の生存本能ならそれは動物と言う枠の中で見た人間の姿でしかありません
しかし、宇宙から見た人間の姿はどの生物とも同じでなんら変わりのない存在です

よくこんな考え方をするのですが
カレーを見る人間の姿の様に
大きな自分が宇宙から地球を見下ろす所を重ねます

そこでは、蟻も、草も、そして像も、人間も
同じそこにある存在そのものでしかありません

カレーの中にじゃがいもやにんじんがある様に

そこには優劣も何もなくそこにあるというだけ
全てが一部であり
全てが一つ

本当の自分と言うものは社会性という枠組みを通して見れば
いつだって誰かのいるどこかにしかいないと錯覚しがちで
人は人を介して自分の存在を認知しているのだと思います

しかし、私が思うのは
誰かのいるどこかには本当は自分もいないのかもしれないと言うこと

と言うより、本当の自分と言う存在は、誰かも自分もいないところにいるのかもしれないと

自分と言う全ての経験や、見たもの聞いたこと、エゴ、そして鈍い体を越えて
もっと軽い自分を知ること

そうすれば、自分の本当が見えてくるのです

虫がどこへ向かうのか、その問いに虫が答えぬ様に

ただ、何かの一部になることで見えてくるものがあるのです


瞑想を自分のやりやすい形で生活に取り込むー音楽、森活

最後に、私は絵を描き
こうして文章を書くために瞑想の代わりに自称・森活を生活に取り入れています

ただ、何かを作り出したい

その欲求だけに従い
生活スタイルを組み換えて行きました

そのためにした事は
テレビを見ずに生活のほとんどのBGMは好きな音楽のみし
疲れた体や心、自分自身から解放されるために森へ出向く
そして、人生の前半で自分自身には合わない物を詰め込まざるおえず生きてきた中で積み重ねてきた物を断捨離すること

それが私の生活にとって瞑想と同じ役割を補っています

私は、少し前にインスピレーションについて記事を書きましたがこの記事で
インスピレーションを拾う方法を書きました


インスピレーションとは
ひらめきや自分の人生にとって大切な事を知る為のどこからともなくやってくるヒント

それを拾うためには、自分にとって必要の無い
社会と言う場所で生きるために掻き込んでしまった自分にいらない価値観や習慣を捨て
空きを作る事で得られます

そんな一連の流れを通し
私は、いかに自分にとっての心や思考にダメージを与える全てのものを生活圏に置いておくことが自分の人生にとって良くないことかを痛感しました

社会生活を送る中では必要不可欠と思われている事で失っているもの
例えば、
自立していな者同士の関わりからくる共依存は、花に水をあげる
ただそれだけの生活習慣さえ出来なくなりますし
テレビを見てるだけで、日々少しづつ傷つき不安は募って行きます
何かと自分を比べることもあるでしょうし
当たり前を錯覚してしまうこともあるでしょう

私はそんな生活を滞らせるものを自分の人生から省き
空いた空間に入れたものが森活や散歩、そして生活のBGMを音楽にすることでした

あえて瞑想をしなくても無駄な思考というものは生活の仕方でぐんと減らす事ができるのです

そして、無駄な思考が減ることで
不思議なことが起こるという事は実際に体験してみないと全ては言葉で語るのは難しいと言えるかもしれません

それはきっと流れに従い少しづつ理解して行く事だからです

少しずつ、自分に合った生活スタイルに変え
少しずつ頭の中のいらない物を捨てて行けば

少しずつ、ほんの少しずつですがぼんやりと自分に必要なものはわかってきますし

何かが整って行くのがわかるでしょう

そして、時に何が味方するようにどこからか何かを受け取ることもあるでしょう

最後に知ることは、全てはどこへ向かうために何かにいつも後押しされていると言う事
例えばそれが、どんなに辛いことでもそれはあなたの味方なのです

人生には人体と同じように自然治癒力があるのだと私は信じています
きっと、本当は自分の心の奥深くではどこへ行きたいのかをわかっている
わかっていないのは多分自分だけで
心はちゃんと知っているのだと

それを見つけるために見えない何かを信じ拾いながら
思うままに生きて行くのが人生なのではないかと私は思っています

人は心をもった以上
同じ人類であっても違う生き物
心地よいと思うものは皆違います

親として、自分の子供に伝えたいことは
もしも、苦しみがいつも心にあるのなら
自分自身として生きるために、自分に合う居場所を人生をかけて探しなさいとそう教えたいと思っています


誰かではなく自分自身の人生を生きれるように




akaiki×shiroimi

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