春の在る風景(春の庭/柴崎友香)

この小みちの右側にはやはり高い松の中に二階のある木造の西洋家屋が一軒白じらと立っている筈だった。(僕の親友はこの家のことを「春のいる家」と称していた)

――芥川龍之介『歯車』(「河童・或る阿呆の一生」収録)p237より引用

なぜ、洋館ふうの建物に、人は春を見出すんだろう。


昔は、芥川龍之介『歯車』の中で。今は、柴崎友香『春の庭』の中で。人が春を見出した場所では、予感が芽吹く。


良い予感?
悪い予感?


それは、どちらに傾くんだろう。その予感は、僕達に何を見せてくれるんだろう。





『春の庭』は、ある洋館ふうの建物――「水色の家」を巡る人達の話。(「巡る」なんて、春にふさわしいことばじゃないか。)「水色の家」に執着する人がいて、執着しない人がいて、そもそも何も知らない人がいて、ただそれだけの話。ドラマチックなことは、何も起こらない。何かが壊されて、何かが作られていく。その理を、ドラマチックと呼ばないのなら。


『春の庭』の舞台は東京だけど、僕が住んでいる田舎と、状況はあんまり変わらないみたいだ。誰にも住んでもらえず、誰にも見向きされなくなった建物は、そのまま朽ちていくか、その土地を使いたい人がいれば、取り壊される。


つい先日、そんな場面に出くわした。築半世紀は経っているだろう木造家屋が、ブルドーザーに解体されているのを。立ち去る頃には開放的になった家屋を、僕はなんだか愛でたくなった。


いつかは、何もかも無くなる。そう、思う。壊しては建てて、壊しては建てて。いずれは、何もかも壊すことになると思う。なぜって訊かれても、そんなのわからないけど。


人によって生み出されたものも、自然によって生み出されたものも、それらは全部、生まれた瞬間に朽ちていくから。そして人は、完全に朽ちるのを待ちきれずに、壊してしまうから。


「水色の家」を巡っていた人達も、いつかは、「水色の家」があったことすら忘れていく。けれど、「水色の家」から誰もいなくなっても、たとえ取り壊されても、「水色の家」は、たしかにそこにあった。その事実は、決して消えない。僕達は、そんな頼りないよすがを抱えて、生きているのかもしれない。





なぜ、洋館ふうの建物に、人は春を見出すんだろう。それはきっと、春を象徴しているから。洋館ふうの建物というファンタジックな場所にも、人が生活していることに、安心するから。


血の通った人達が、血の通った家を作り上げる。その場所は、誰もが春を連想させる、温かい場所だ。


春の庭。

3/25更新

春の庭/柴崎友香(2014年)

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