それはそれとして、(月とコーヒー/吉田 篤弘)

『月とコーヒー』


読み終えたのは、9月。


ただし、1年前の。


1年後に、ボクは本の記憶をそっと取り出し、ここに書いている。


月は、9月がよく似合う。コーヒーも、涼しくなった季節によく似合う。つまるところ、頃合いなのだ。





記憶は、2種類ある。


一つは、何度でも思い出したくなるもの。もう一つは、年に一度会うことが出来たなら幸いのもの。


前者は、身に覚えがある人も多いだろう。しかし、後者が存在することを肯いてくれる人は、はたして何人いるだろう。


先程「年に一度」といったが、三年後、もしくは五年後に出会うことになる記憶もあるだろう。それは、牽牛と織姫も忌避すべき頻度。


「それは、寂しいこと」だと思うだろうか。それが大切な記憶であるほど、なおさらだろうか。


けれど、十年後になろうと百年後になろうと、思い出せるということは、その記憶は、常に自分の中に居続けたのだ。自分を、ずっと見守っていてくれたのだ。


忘れていたはずの記憶を、ふとしたときに取り出す喜びはひとしおだろう。きっと、そのときの喜びを忘れないために、記憶を忘れてしまう(つもりになっている)こともあるのだ。


人の記憶は、人そのものだと思う。人の記憶を抱えているということは、その人自身を大切に思っていたことでもある。


その誰かが、たしかに存在したこと。誰かにとって、自分も大切な存在だったかもしれないこと。その事実は、記憶を以て、ボクらを暖めてくれる。





何かを思い出すのに、9月は良い季節だと思う。茹だるような暑さで失くしていた余裕も、涼風が焦りも不安も静かにさらっていくこの時期なら、取り戻すことが出来るはずだから。


日が暮れる頃、もしかしたら、ふと思い出すのかもしれない。いつか、胸の内にしまい込んでいた大切な記憶を。


そのときは、コーヒーでも淹れよう。せっかくの再会だから、うちにある中でも、とびきり上等な豆を用意しよう。


月が出ているなら、それを眺めながら一服しよう。再会を祝いながら、一生に一度の月見をしよう。


これもまた、大切な記憶として、ボクの中にしまわれていく。


ああ、そうか。

また、いつか
月の下で
会いましょう。

――吉田 篤弘『月とコーヒー』帯より引用

つまりは、そういうことなのだ。

9/16更新

月とコーヒー/吉田 篤弘(2019年)

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