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私にとって、学校はとても狭い箱だった

こんにちは、愛音です

自分が精神障害者だと知ったのは20年近く前のこと。不登校になったのも22年前。
だけど記憶は古くなったり、忘れたりしていません。

【学校に行けなくなるとはどんな気持ちか?】


これは私の場合になりますが、まずとにかく負けた気持ちになりました。
私は学校で授業がしたかった。
椅子に座って、ノートをとって、質問して、テストをして、そんな学校生活がしたかった。

でも現実は授業妨害が起こっていました。喋る、笑う、手紙を回す、教師の注意は無視する、授業が成立しない。
その中でも必死に教科書を見て、授業が出来ないのなら1人で内容を理解しようとしていた。時に私も怒鳴り、静かにさせていた。
でも、とうとう教室への一歩が出なくなった。

またこの箱に入ったら、煩い1日が始まる

たった一歩なのに、ドアの前で固まったけれど勇気を振り絞り、無理やり足を、体を、教室に入れました。

だけどどんどん自分が壊れていきます。

教室にいると吐き気がする。何度も授業中にトイレに行き胃液を吐いていました。
胃液と一緒に苦しい気持ちを吐き出したい。でも吐けるのは胃液のみ。
苦しさは重なり大きくなる一方でした。

今思えば、何度も何度も吐いてまで通い続ける場所ではないと感じます。
体も心もSOSサインを出していたのに、私は認めませんでした。認めるなんてしたくなかったからです。

【授業妨害を起こす同級生に対し負けを認めることになるから】


負けたくなかった。私は間違ってない。
学校で授業を受けたい私はおかしくなんてない。
おかしくないのに、負けを認めるなんてそれこそおかしい!

負けたくない、この気持ちだけで学校に通い続けました。
でももう全てが限界。
体が動かない、心は弱る一方、トイレに入っても胃液すら吐けなくなっていく。
トイレの個室で私は惨めに泣きました。

助けて…誰か助けて…誰か助けてよ……!

そしてとうとう負けを認め、私は不登校になりました。
児童相談所では「ちょっと疲れただけだよ。1週間も休めば友達に会いたくなってすぐ学校に戻れるから」と初回で言われ、私は顔も心も凍りつきました。そして話の通じる相手じゃないと悟りました。

児童相談所の職員とは完全に相性悪かったです。
代わりに精神科ではとてもいい主治医とカウンセラーに出逢えたことで、人生を少しずつのペースで新しく作ることが出来ました。
主治医には失礼なことも沢山言いましたが、私がどんなことを言っても否定せず、受け止めてくれ、説明が必要な場合は説明してくれて、一緒に悩んでくれる。
カウンセラーさんとも相性が良く、家では言えないことも言えたり、本音を心から言葉にして出す時、私は何回も何回も泣きました。

本当は死にたいなんて思わない
でも生きることが怖い…
生きることに自信がないです…
周りにはきっとあの同級生たちみたいな人しかいないよ!
だって世の中そんなに優しくできてないもの!

世の中が優しいのか厳しいのか、今も胸を張って答えることは出来ません。
だけど、私の世界は優しさと厳しさをバランスを取っています。
カウンセリングは10年以上受けて、今は主治医の代わりの先生ですが変わらずに診察をしてもらいながら、家族とはマイペースに生活をしながら。

私は私の軸、私の世界を作り上げ、生きています。

最初は負けたと思った不登校ですが、今ではこんな風にも思います。

学校なんて箱に収まりきらないくらい広くて、大きくて、優しい世界が知りたくて、だから飛び出したんだよ。
それに、あの不自由な狭い箱に居続けたら、これから大好きになる未来の私にも逢えないでしょ?

*愛音*

2024/05/06
可哀想な人なんて実はいない
みんなどこかに輝くものがあり
どこかに羨ましく思える部分がある
今、見えなくても
一生見えないわけじゃない
昔はボロボロの私だったけど
今は愛しいと伝えられるよ


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愛音
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