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価値という言葉に振り回された

こんにちは、愛音です

5年生の時テストの採点をしてた担任から

愛音さんの点数はクラス平均の目安にちょうどいい
Aさんだと高いし、Bさんは低いときあるから

それを聞いたときに今後も平均点取れるようにしよう
私はクラスの平均なんだから!
と自分の価値をこのクラスの平均、と思いました

中学でも委員会で委員長を決めるときや
生徒会役員立候補の時期になると
教師たちに声をかけられました
やらないの、力があると思うよ?
なんで手を挙げないんだ?
向いてるからやってみなさいよ、など

変に洗脳されやすかった私は
委員長や生徒会にいることが学校にいる価値だ
と思い込み、副委員長や副部長、生徒会にも入りました

生徒会は不登校になり、なにも出来ないまま辞めました
教師の手によって生徒会役員の校章を外されたとき

もう私がいる意味はない
この学校にいる価値もない……

目の前が真っ暗になった瞬間でした
学校からあなたは無価値、と言われた気分にもなりました

ここまでは学校での価値、では家ではどうか?

家では自分の価値という言葉が浮かんだことは少ないです
もしかしたらないのかもしれない

沢山の温かい気持ちを貰っていた
とても小さい時から今までずっと
それにより自分を点数とか価値を気にするような
不安が起きにくかった

不登校になってから何度か泣きながら
捨てないで!とか家族でいさせて!など言いましたが
家族からはそんなことないから安心して
と言ってもらい安心するパターンでした


学校では散々価値という言葉に心左右されましたが
今思うと、【価値】という言葉を使うのが嫌です
価値というと人ではなくモノみたいです
人のすべてを点数で表したり
価値として比較することもおかしい

これを書きながらも適切な答えは見えないのですが
たとえば私の価値はなんだろう?と考えたとして
どのくらい自分に満足してるか?
これで答えると思います

現在無職でついつい価値を低く見がちですが…

家事を頑張ってる
出来ないときにやらない選択を選べる
noteの皆さんと仲良く交流している
手抜き、適当、良い加減、が分かるようになった
1日を穏やかに終えられる

このような、かなり満足した生活をしています
満足した生活には価値という言葉より
安心、を当てはめたい気持ちでいます

そうか、学生時代もそうだったのかもしれません
私は安心したかった
安心という言葉より先になぜだか価値が前に出て
それでやたらと価値、価値、と表現していた
そのせいで苦しい思いもしたけど
今になってやっと適した言葉を見つけました

安心したい、自分に満足したい
ただそれだけだった

自分の価値を考えるのではなくて
自分の安心を探してる
人の価値は安心や満足感に現れるものなのかもしれません
色々な考えはあると思いますが
今回はこの答えにたどり着きました

あなたの心は安心しているでしょうか?
今の自分に満足を感じますか?

*愛音*

2022/11/19
青空と紅葉した木々
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