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差別は至るところにある

例の小田急線の事件。恥ずかしながらあまりニュースを見なくなってしまった私。最初はどこに問題があるのかわからず、昨日はTwitterで情報収集をしていました。

そこで知ったのは、ミソジニーの定義とフェミサイドとの関連。ミソジニーという言葉は聞いたことはあったのですが、この定義に出会ってやっと理解できた気がします。

ミソジニーとは女性一般を嫌うことではなく、良い女性と悪い女性を区別し、後者を罰する政治現象である。
良い女性とは、男性に対して、惜しみなく与え、ケアし、愛し、気を配ってくれる存在である。その女性としての務めを怠ったり、無視したりする者に対して、社会的承認の撤回という罰が下される。
引用(https://book.asahi.com/article/13581208


ミソジニーの標的になった経験


この定義を知り、初めて自分の経験に定義がついたと感じたので思わずつぶやいたのですが、私もミソジニーの標的になった経験があります。

「私はこの男性から目の敵のように扱われているな」「この男性の味方であり"優しい"女性はひいきに扱われているな」という感覚は当時もありました。

だけどうまく言語化できなくて、誰かに助けを求めることもできなかった。急に社内で怒鳴られる姿をみんなが見ても、みんな標的になりたくないから本人をとがめることはない。

社内だけでなく、クライアント先で怒鳴られたこともありました。異常さにはみんなが気づいていたけど、まるでそれはその男性と私だけの問題であるかのように扱われました。

ミソジニーとフェミサイド


この問題は、不勉強な者が語るべき問題ではないと思っています。

だけど、女性として生きづらさを感じてきた私は、いま書かずにはいられませんでした。

先述したミソジニーの標的になった経験や、クライアントからセクハラを受けて心を病んでしまった経験。また、セクハラ後に当時の上司から無意識に向けられたセカンドレイプ。

どれも本人たちのどこかには、女性蔑視が潜んでいると感じます。

これらの問題はこれからも個人の問題として受け流し、社会の問題として捉えないままでいいのでしょうか。

話を大きくしすぎなんて、当事者外の方や被害を受けたことのない方に言われる筋合いはないと思っています。だって私は、被害を受けて心が死んだから。物理的な暴力でなくても、心を病んで精神的に死ぬことはあります。

私の尊厳を回復してくれようとする友人や家族のおかげでいまはこうして生活できています。だけど実体験を通して思うのは、ひとの精神は簡単に殺せます。


今回のフェミサイドの事件と私の話は、話の大きさや被害の度合いが全く違うと思うかもしれません。

だけど、被害を受ける側の女性としては感じる恐怖は同じです。物理的にも精神的にも、「女性である」ことが理由になって生活や命が脅かされることがある。非常に悲しい事実だと思います。

差別は至るところにある


女性差別・女性蔑視について私が言語化ができた一番最初の経験は、大学生の頃に彼氏に言われた「子どもが早くほしいから早く(誰か女性と)結婚したい」という言葉でした。

浮気はしない、優しい、子どもが好きというひとだったので、一見すれば夫にするにはいい男性のようにも見えるかもしれません。

だけど、私は「子どもが早くほしいから」という言葉がどうしても引っかかっていました。

結局その後お別れをして数年経ちましたが、最近になってやっとこれが女性蔑視からくる発言だったのだと気づきました。


女性差別や女性蔑視は、特別な事件や非日常のなかだけにあるものではありません。しっかりと日常のなかに、実はたくさん潜んでいます。

自分の思っている常識が女性蔑視に基づいていないかと考えること。男性も女性もともに考えたい問題だと思います。

自らの思う常識で、自分の未来や他人の未来を狭めたり苦しめたりしていないか。

女性を差別的に見ないことは、男性の地位を奪うものではありません。どのひとも自分らしく生きるために、お互いの尊厳を認めあえる社会にしていきたいです。


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7年半勤めた会社を30歳で辞め、好きな場所に住んで好きな仕事をする人生を作り直すと決めました。サポートいただいたお金は、退職後にお仕事にしているコーチングのスキル向上や、noteを書き続けるための生活に使用します🙇🏻これからも記事を通してみなさんと繋がれたら嬉しいです☺️