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『ランナーズ』/掌編小説

彼は走る。

ダン、ダン、と固いアスファルトを足裏に踏みしめて、全身で風を切る。

――もう、息が、上がって、きた。

毎年恒例の市民マラソンに参加する度、思い出すことがあった。

止め、ときゃ、よかった__。

後悔の想いだ。
どういうわけか、バカみたいに、
毎年ゴールラインを切った瞬間、苦しみも、息のつまりも、痛む脚も、全て忘れてまた来年の大会のエントリーシートに、先の丸まった鉛筆でスルスルと記入しているのだった。

俺は、阿呆だ。
次は、もう、絶対に、参加する、ものか。
体も足取りも、去年よりずっしりと重くなった気がする。

それも、そうか。今の会社に勤めてもう三十年。歳もとった。
最近のパソコンソフトやITに疎い俺は、二回りも年下の部下たちにいちいち操作方法を聞いて、疎まれているのを感じる。なんとなく上からの評価も下がったような。

へとへとになって家に帰れば、リビングで寛ぐ娘はいそいそと風呂に入る。俺の後の湯には入りたくないらしい。中学に上がってからは会話も少なくなった。

そして貴重な休みの日には、こんな苦しい大会に、自ら参加しているのだから、世話はない。ハァハァと上がる息の隙間で、冷たい空気に冷やされて、思考はぐるぐると廻っていた。

タッタッタ。後ろから近づく軽快な足音。
ちらと横目でみると、横山だ。二回り下の部下。あいつもこの大会に、出ていたのか。

疲れを感じないのか、ものすごいスピードで隣を駆け抜けていった。
ぐんぐん、離される。

なにくそと、必死で追いかけるも、足がもつれて転びそうになる。

駄目だ。
心も切れ切れ、足が、いたい。豆が、つぶれたかもしれない。

なぜ、こんな、苦しいことを。

もはやここまでと、リタイヤしそうになる気持ちと裏腹に、温まった体と、ドクドクと強く胸打つ鼓動が俺の脚を止めなかった。

次の一歩を前に出すため、力一杯腕を振って地面を蹴る。

まだ、いける、俺は。
俺はまだ、走る。


続々とランナーたちがゴールする中、ほうぼうの体でなんとかゴールラインを切った。

見たか。
歓喜に包まれる。
帰ったら、久しぶりに娘と話そう。パソコンの本を一冊、買ってみても、いいかもしれない。
流れる汗をぬぐい、肩で息を整えながら、ゆっくりと歩く。ゴール直後に、急に立ち止まるのは良くない。それに、路上にペタリとへたり込む前に、俺にはまだ、やることがあった。

よろよろと大会運営のテントへ向かう。
さあ。エントリーシートは、どこだ。

堂々と、記載台の上に転がる鉛筆を手に取った。

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