【ミャンマーNGO記②人々が放射している慈愛】
なぜ、ミャンマーの人は、私にはない質の、慈愛を放射しているのか?
これは、私の、一つの疑問だった。
圧倒的なオーラを発しているのだ。
とにかく、私の周りのミャンマーの人達は、私のことを非常に大切にしてくれた。
驚くのだが、住んでいたアパートの大家さんは、私が入居した直後から、
外国人の私が来たのをえらく喜んでくれ、にこにこして家事は何でも請け負うといって、
いつも引き下がらなかった。
「愛子は家族だから、毎日でもうちでご飯食べて」 と言ってくれ、
「せめて洗濯してあげる。うちに洗濯機あるから!」 と言って、私の洗濯物とアイロンがけを一手に引き受けてくれ、
大家さんのご家族が経営するお隣のジュース屋さんでは、私がライムジュースを注文すると、
なぜだかごはんとおかず7~8種までも一緒に出されてきた。
(そして、食事のお代は受け取ってくれない)
あぁ、ミャンマー人の、底知れない親切さ。
町に住む外国人が珍しい、というのもあったと思うが、
とにかく、もてなし、食事をふるまい、相手のためになることをしたい、それをするのが当然、という様子だった。
NGOの仕事は、子どもの教育支援事業のコーディネーターだった。
学校の建設、学校に行けず働かなくてはいけない子どもたちのための、夜間小学校(中学ではなく、小学校である)の運営、地域図書館の支援など。
事業を進めていた、現地の僧侶の方、尼僧の方々は素晴らしかった。
少数民族地域と国軍との間での内戦が止まないミャンマーで、村を焼かれて、子どもたちだけが、親元を離れ、あるいは親を失って、国内の僧院ネットワーク伝いに、比較的安全な内地の僧院へと、送られてくる。
その子どもたちを引き取る、内地の寺は、孤児院・兼 学校として、大切な機能を果たしていた。
運営費なんてまかなえるはずもない。
けれど、外部の者から見たら奇跡的なことに、地域の人達が、お米や野菜の寄付を受け取り、それらの孤児院は運営されていた。
孤児院の責任者のある尼僧の方は、300人超の子どもたちを養っていた。「地域の米屋や、肉屋が、食材を提供してくれて。地域の人みんなに、借金してるの」と、笑いながら話してくれた。
ある程度のまとまった寄付を出してくれるドナーが現れるまで、いつ、その地域の店へ返済ができるかは分からない。それも承知で、地域の人達は、孤児院の食事の材料を提供していた。
130以上の少数民族、マフィア、軍部などいろんな闇の勢力も多い中で、この国における人間の多様性と奥深さはとても一概に言えるものではない。
けれど、私の出逢った僧院の僧侶の方、尼僧の方たちの発する周波数は素晴らしかった。
存在から、圧倒的に放たれている光があった。
ミャンマーは敬虔な上座部仏教徒の多い国なのだが、上座部仏教の目的は、簡単に言うと、
「自分自身の悟りを開くこと」 と言われる。
こころの動きを見つめ、意識の動きを見つめ、自らのこころが平安である状態、悟りと愛である状態を目指していく。
その徹底した自分自身への道のりが土台にあるからこそ、ここまで自然に発光する利他へと、行為が向かうのだ。
政治状況で弾圧されているからこそ、市民レベルでの横のつながりは濃くなる。
「困っている相手を助けたい」 村を焼かれて、送られてきたいろんな少数民族出身の子どもたちを、
ひとつの家族として育てる。地域の人たちも、お互い様だね、と言って、当たり前のごとく、互いに助け合える、相互扶助の関係。
村の子は、みんなの子。
食事は、みんなで食べる、それが当たり前。
彼らの、家族へ向けた、圧倒的でまじりけのない思いやりは、こちらにダイレクトに響いてきた。
私は、仕事でない日でも、ついついそうした僧院学校(孤児院)へ行きたくなるくらい、いつも、その空間は浄化されていたのだ。
なぜ、そこまでの慈愛の空間ができていたのか?
自己犠牲することなく、自分自身を満たして、幸せであることが、彼らのこころのベースにあるからだ、と、今振り返って思う。
自らのこころの内に、自己否定も、罪悪感も、焦りも、不安も、微塵もなく。
その代わりに、胸のうちに、
柔らくて愛おしい、愛が溢れているから。
そのとき、人は世界に、愛を放射している。
放射しあっている。
ミャンマーの町の人たちが、喜びを放射して、NGO職員の私に向けて、いくらでも世話をし、ご馳走を用意してくれるのは、
彼らが、『自分そのままを受け容れて、満たされて、既に自分が幸せであるのが常態化していたから』、
なのだと思う。
まったく、私に何かしたくてたまらない、という様子だった。明るくて、朗らかな人たちだった。
私の人生の中でたった1年間、でも、5年分は働いた、貴重で濃密な経験のミャンマーでの1年だった。
ひとつの統合に辿り着くのに、10年かかった。
あんなに、濃く、苦しく、締め付け、疲弊し、人のやさしさに驚き、泣き、子どものいのちにふれ、
すごい存在感の僧侶、尼僧の方々に出逢ったのは、私の人生でも、導かれた、
不思議なご縁だった。
今、ようやく、また深い層で、
あの時苦しかった出来事にも、距離を置き離れた人々にも、
「ありがとう」 「どうぞ、あなたも、あなたの光を輝かせてください」 と、
感謝と愛を送ることが出来る。
今、パンデミックと軍事クーデターの両方の被害を被り、「生涯で一番つらい」とも言う日々を過ごす国の人達。
こころから、あなた方が今目の前で体験している苦難、そこを選んで経験しようとしている、あなた方の魂の崇高さに、
深く深く、敬意を表します。
ありがとう。
(2014年当時の日記)
東京の母からメールが入った。春から同居していた孫2人、狭い家の中が窮屈だったからか、
「(このおうちは)だいきらい!」とよくわめいて母たちと衝突した挙句、別居することになったらしい。
「情けない大人だわ」と母、メールに疲れが滲み出る。
6歳と5歳、たしかに子どもとはいえ、わめく暴力を振るう泣き叫ぶ、大人たちは大変だっただろうなあ、
私もこの甥と姪達と同居したのがたった2週間だったけど、へとへとになった。
Kくん、Sちゃん、ママ、いつか、おばのいるミャンマーにきてくれたらいいなぁ。
この写真の尼僧の方は孤児院の創設者。彼女と補佐の尼僧1人で、230人の孤児を預かっている。
子どもたちはカチンやカレン、シャンなど少数民族地域から送られてくる子もいれば、
諸事情により地元で産み落とされ、生後2週間で預けられてしまう子もいる。
バックグラウンドは様々。
保母さん的なケアワーカーの数はとても足りているとはいえないけれど、
年長の子達が自然と下の子ども達の面倒を見ているので、特に大きな問題がないよう。
この孤児院へ行くと、悲壮感は全くなく、むしろ温かみと優しさが満ちていて、
いつも晴れ晴れした気持ちになってしまう。
そして、情緒的に子どもたちは安定しているように見える。
私が見る限り、こちらの子どもたちに一概に言えることだけれども、
喚いたりわがままを言って大人を困らせる、
ということが日本の子どもたちと比較してずっと少ないように思う。
みんな穏やかだ。
どうしてかなぁ、とずっと考えているけど、私にもまだよく分からない。
大人たちもゆったりした時間の中で生きているからかなぁ。
年長の人を尊敬する文化が根強く残っているからかなぁ。
「次のようなことがあった。
両親が暴力をふるってくる子どもに向かって、
自分たちがこれまで何でもおまえの欲しいものを与えてやってきたのに、
何が不足で暴れるのかと尋ねた。
それに対して子どもは、『うちに宗教がない』と答えたのである。」
~
ここで、子どもが「宗教」と言っていることは、単に葬式を仏教でするかどうかなどというのではなく、
もっと本質的な問いかけであることはもちろんである。
~
これは物質的な豊かさをすべてと思うところに基礎があると思われる。
多くのものを与えてさえやれば、すなわちそれで満足であると思っている。
しかし、それは『豊かな』ことであろうか。
その点を、子どもたちはまっすぐに突いてくるのである。
~
根源的なことを不問にして、ただ物ばかり与えられ、
しかも、それで何の不足もないだろうなどと断言されては、子どもとしてはたまったものではない。
~
大人たちの現実認識があまりにも単層的で、きまりきったものとなるとき、
子どもたちの目は、大人の見るのとは異なった真実を見ているのである。
われわれ大人の目は、常識というものによって曇らされている。
子どもたちの透徹した目は、異なった真実を見る。」
(『子どもの本を読む』河合隼雄)
日本で満たされない思いを抱えていっぱいいっぱいの中生きるのと、
親元を離れざるを得なくても、温かいお兄さんお姉さんや尼さんと大家族の中で育っていくのと、
いったいどちらが幸せかなぁ。おばもよく分からなくなっているよ。
Kくん、Sちゃん、ママ、
いつか、ミャンマーに来てくれるといいなぁとおばは思っているよ。
そして、こっちの子どもたちと一緒に遊んでくれればいいなぁ。
(③に続きます)