【ミャンマーNGO記①皮膚感染の後遺症】
毎年湿気の多い夏になると、必ず足に炎症が自然発生して、苦労していた。皮膚のバリア機能や免疫機能が極端に低下して、ただのかぶれや虫刺されだけで、すぐ内側から炎症が出来て膿が止まらなくなる。些細な擦り傷、切り傷でさえ、傷がふさがらず、膿んで感染し、毎回厄介なことになっていた。何とかレイキやクレイ、コロイダルシルバーなどの自然療法で治そうとするも、結局膿が止まらず、泣く泣く、毎度、最後には抗生物質の塗り薬や飲み薬で、広がる膿に対処する他なかった。
なぜこうなったのか、というと、10年前にNGOの勤務で赴任したミャンマーで、皮膚感染症になったことが大きいと思う。当時、大事な学校建設の完成イベントを控えており、仕事のことで頭が一杯で、軽い擦り傷か何かを甘く見ていたのが原因だった。衛生状態が悪い土地で、細菌が入ると、ささやかな傷でも命取りになることがある。結局、建設完了式典の後、すぐに病院に運ばれ、ミャンマーの田舎の病院で2週間入院し、抗生物質を注射で大量投入して、なんとか回復した。
私はその直後にそのNGOを退職して、ミャンマーを離れたのだけれど、その翌年から、毎年、足にケガや虫刺されから、膿が自然発生するようになった。それ以前の私は、皮膚に関しては全く健康的に問題がなかったので、あの感染症の後遺症なのだということは、はっきりしている。毎年夏になって、炎症が始まると、かすかにため息が出た。
ただ、それにしても、あまりに傷が治らず、明らかに、それ以前の自分と比べて免疫が低下していることは不思議だった。年々、体が過敏になり、明らかに免疫が弱っていくように感じるのは、なぜだろうか。この数年後にコロナ騒動があり、予防接種について調べていた私は、やっと一つ、納得のいく答えに出会ったように思った。
ミャンマーに赴任する際に、私は色んな予防接種を受けていた。A型肝炎、B型肝炎、狂犬病、日本脳炎… 所属していたNGOからは接種を推奨され、当時はまったくの無知で、当たり前のごとく、それらは「打つもの」と思っていた。私の子ども時代、親も何の疑問もなく、いろんな予防接種を私に打たせていたと思う。けれど調べていくうちに、どんな予防接種にも必ず重金属や添加物などの有害物質が入っているということが分かった。それが神経毒となり、自己免疫疾患やADHD、神経障害をもたらしたり、免疫機能を低下させるという研究があった。エイズはウィルス感染症ではなく、実はなんと、肝炎の予防接種による薬害だという話もあった。そうした話は、製薬会社の利権にからむことなので、決して表には出てこない。なんだか納得した。私も肝炎の予防接種を打ったけれど、その後数年かけて、年々と自然免疫機能が働かなくなっていると体感する理由が、腑に落ちた。
ミャンマーから帰国後は、人生の中でも体調が一番底をついて、その時期を境に、私は、組織に属して働くことを諦めることになった。もう、身体がもたなくなったのだ。そして、体を治癒し、体へともぐりこんでいく道へと大きくシフトチェンジして、自分を癒すことに向き合っていった。
数年かけて、低血糖や副腎疲労、無月経などの体の不調は時間をかけて、元に戻っていった。最後に残ったのが、毎年起こる、皮膚炎の問題だった。
それが、今年の夏。ミャンマーでの1年から10年経った今年の夏、初めて、炎症が起こっていない。あれ、と思ったが、もう、起こらなくてもいいようだった。体の中に残っていた毒素が、ゆっくりと10年かけて、少しずつ出ていったのかもしれない。
その、起こらなかったことの背後(皮膚下)に、起こっているであろうことを想像して、しみじみ、あぁ、10年、よく頑張ってきたな、と思った。私の体は、自分に合うペースで、ゆっくりと毒素を排出し続けてくれていたようだ。同時に思ったことは、私の中で、ミャンマーでの1年は、かなり精神的肉体的に過酷な1年だったけれど、この10年間、それを言葉にすることもほとんどできないくらい、癒えるのにも十二分に時間がかかったんだ、ということだった。
ただただ、私は、経験したことに圧倒され、疲弊していた。
癒すために、そこに触れない時間が必要だった。
(ミャンマーのことに関しては、これまでほぼ全く書けなかった。それはあまりにプライベートな話で、近接する人のプライバシーや彼らへの尊重をないがしろにする危険も大きく、未だに書けることは少ない。それと、対応するテーマは社会的、世界的なことも関連し、私もあまりに混沌としすぎていた。ただただ、疲弊した、というのが言葉にできるやっとのところかもしれない。)
それでも、10年が経ち、あの時に受けた傷の最後が、時間をかけて絞り出されて、足の傷を再燃させないまで、今ようやくたどり着いたのかもしれない。個人的なレベルでの治癒。そう思うと、なんだか感慨深いものがある。
よく、頑張ったね、と、
今でも、何度も、何十倍も、
あの時の自分を労ってあげていいのかもしれない。
何百回でも、労いたいのかもしれない。
どれだけ労っても、労い足りないくらい、
私は、私に、
「よく、やったね。」
「もう、だいじょうぶだよ。」
そう、言ってあげたいのかもしれない。
そして、
「もう、癒える準備ができたよ。」
と。
10年後の未来の自分から、あの時の自分に向かって、やっと、
声をかけてあげられるのかもしれない。
わたし達には、人生の中で、折々、そうしたときが、訪れるのかもしれない。
過去に、埋もれた経験を、裁くことなく、そっと、奧から取り出せるときが。
赴任中、突然業務の契約終了を告げられ、今後どうしたものか、身の振りようが分からないまま、
年末年始の休みに、一人ミャンマー国内を旅していた。
シャン州のインレー湖、有名な片足漕ぎのインダー族の方。天空、半円球の見渡す限りのパノラマ夕陽。
後にも先にも、こんな夕陽をみたのは、初めてだ。
色んな町を訪れる度に、ここで暮らすとしたら自分はどうだろう?と想像するのが好きだった。
結論は、もし夕陽が綺麗に見える場所だったら、どこでもやっていけるんじゃないかな、ということだった。
ミャンマーでの激しい一年間、毎日、いろんなことがあったが、
くたくたになった一日の終わりに、変わらずに沈んでいく、赤い赤い夕陽を見ると、しばし、すべてのことを忘れられた。
その日の疲れが、洗い流されていた。
ミャンマーで経験した1年の、私の心象風景を、これから少しここに綴っていきたいと思います。
良かったら、お付き合いください。
(続き)