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【連載小説】「緑にゆれる」Vol.88 第九章


 息が詰まるような夏が過ぎ、風に涼やかなものが混じるころ、店に思いがけない客がやって来た。マリは、九月の風と共に、ひらりと店に舞い込んできた。

「すみません、今日は、ランチ、やっていなくて」
 それは分かっていた、というように、マリは軽く手を振った。そして、テーブルに座ると、店の中を見回し、外に続くデッキの方を見ながら、カケルは? と聞いた。カケルさんは、いないの。
 マリが訪ねて来た目的を察し、美晴はごく簡単に、出て行ったことを告げた。
「なぁんだ。私は、てっきり」
 運ばれてきたアイスコーヒーのストローに口をつけると、マリは、言葉を区切った。向かいあって座った美晴は、ホットコーヒーに口をつけて、うつむいた。
「風のうわさで、ここで一緒に暮らしてる、っていうから、冷やかしに来たのに」
 緊張をほぐすかのように、背もたれに体を長々と預けてマリが言う。
 美晴は、何と答えたものか、ごまかすように頭をかき、あいまいに笑った。
 そんな美晴の顔をのぞきこんで、マリは少し、からかうように言った。
「何もなかったってわけじゃ、なさそう、ね」
 美晴は、少しどきりとしてマリの顔を見た。彼女は、何か追求するでもなく、ただ、ふふっと笑った。ふいに、くすぐられたような、ほぐされたような気分が広がった。

「たぶん私は」
 美晴は軽く息を吐いた。
「たかをくくっていたんだと思います」

 とまどいつつ、自分の心を少しずつほどいていくように、言葉を口にした。
「学生のときも、私たちの間には、何も起こらなかったから」
 少しうつむいたマリの髪が、日に透ける。

「大人になって、お互い好きな人ができて、彼は結婚して、別れて。私は――父親のない子を生んで。そんな、いろいろあって、もう、自分には恋愛とか、結婚とか、ないだろうなー、って。思ってたと思う。だから、一緒に住んでも、何も起こらないだろうし、ましてや、カケルさんが私をどうこう思うなんて、ないだろう、って」
 美晴は、コーヒーにミルクをつぎ足して、ゆっくりスプーンでかき回した。

「でも、ちがった」
 マリの言葉に、思わず顔を上げた。美しい目が、包み込むように自分を見つめている。

「何もない、って思ってたのは、当の本人たちだけだよ。本当は、ずっと、あった。二人の間には」
「そんな……」

 マリがカケルとつき合っていた事実を前に、肯定はできなかった。また、する要因もないのだ。実際。

「私ね」
 マリは、ほおづえを外して、椅子にもたれかかった。
「本当言うと、カケルとつき合っていたときから、美晴ちゃんに嫉妬してたと思う」
「え」
「そう、たぶん、あれは、嫉妬」

 気まずくなって、美晴は視線を手元に落とした。
「私とカケルの間にはないものが、カケルと美晴ちゃんの間にはあるように、見えたの。かすかだけど」

「それは、でも」
 少し首をかしげながら、美晴は言葉を選ぶ。
「カケルさんと、マリさんの間にも、ありましたよ。何か、特別な空気が」
 それに気づいた自分が傷ついて、それ以上、彼について何か思うことを慌ててひっこめたことを記憶している。

「それは、あったと思うわ。つき合っていたときにはね。でも」
 まばたきをしたマリのまつ毛が、かすかに震えたのを、美晴は見た。

「舞台本番のカーテンコールのとき。私、見たの。くらくらして倒れそうになっている美晴ちゃんの背中を、カケルがそっと優しく支えたのを」

 今まで、誰にも指摘されなかった、それは美晴にとっての秘密だった。言葉にしたことはない。向こうは忘れているかもしれない。けれど、そのときの温かい感触と幸福感は、確かに美晴の肌の記憶の底に、ずっと眠るようにしてあったのだった。遠い昔の、支えられた記憶。

「あぁ、カケルは、美晴ちゃんを愛しているんだなぁ、と思ったの。本当よ」


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