【連載小説】「緑にゆれる」Vol.87 第九章
第九章
彼が去ってからの夏は、ほとんど記憶がない。白い夏。すべての色が、強い陽光のもと飛んでしまって、特に印象に残る出来事もなく、ただ、だらだらと日が過ぎた。
彼が来る前までは、静かな日々が当たり前だったのに、何かが足りなく、しらけていて、料理を作る手も、やや鈍りがちだった。仕事だから、と言い聞かせないとはかどらず、頭の回転も鈍かった。
彼が残していった大量の本や少しの衣類、それから洗面台の歯ブラシ。そこここにある彼の形跡が、またぽかん、とした空虚を、美晴の心にもたらした。
笑顔で、送り出したはずだった。けれど、いない、ということが、こういうことなんだ、となかなか納得できなかった。
あの日。カケルが出て行った直後に、学校から帰って来た圭は、その事実を聞くと、行き先も聞かずに家を飛び出していった。夕方近くに、肩を落として帰ってきて、追いつけなかった、と言った。そして、汗ばんだ腕で、しきりに涙をぬぐった。肩に手をかけると、わっと声をあげて泣き出した。
ひどい、ひどいよ。ぼくに黙って行っちゃうなんて。カケルさんのうそつき。
彼なりに、カケルとの間に親密な関係が出来上がっていたことを、知った。
「帰ってくるって、そう言ってたから」
肩を抱くと、いつ? という質問が投げられて、そこでまた美晴はとまどった。
いつ? そんなの、私だって知りたい。
彼からは、メールも電話も、一切なかった。
日が落ちかけて、忘れられていたベランダのバスタオルを取り込む。薄暗い洗面所で、重ねてラックにつめこもうとしたら、何かひっかかる。奥を探ったら、丸まってしわになった木綿の白いシャツが出てきた。
こんなところにも、また。
美晴は、だれにも聞こえないくらいの小さなため息をつく。
これは、一回着たのだろうか。それとも、洗い立て。聞こう、と思っても、彼はいない。
本能的に、ふと、えり元の匂いをかぐ。
かすかな、彼の匂い。おそらく、長年着回すごとに刻み込まれた、彼のもの。その匂いが鼻から舞い込んだとたん、美晴の心は得も言われぬ悲しみでいっぱいになった。
抱きしめたかったのだ。本当は。
何度も、何度も、こうしたかった。
彼のシャツに触れて、ぎゅっと胸に抱いて初めてそう認識した。
ふと、顔をあげると、鏡の中にいつもと違う自分の顔があった。愛を追い求める女の顔。
潤んだ目は、そのさらに奥にある視線とぶつかった。洗面所の入り口でたたずむ、それは息子の目だった。水気を帯びた自分の瞳の色に比べ、それは漆黒の石のように見えた。圭は、黙って、振り返り、行ってしまった。
「カケルさんが出て行ったのは」
その日の夕食後、二階で洗濯物をたたんでいる背中に、ふいに話しかけられてどきりとした。唐突に出た言葉の内容だけではない。少し乱暴な息子の声は、いつになく大人びて、一人の男のように聞こえた。
「ぼくのせいかもしれない」
黙って振り向くと、息子は木のヘリに手をかけたまま、思いつめた顔をしていた。
「そんなこと、ないよ」
否定した声が、思いの外震えてしまって、それによってまた動揺した。
「どうして、そんなこと言うの」
笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「だって」
圭は、そう言ったまま、口をつぐんだ。そして、こう言った。
「ぼくが、出ていけばよかった」
まるで初めてのものを見るように、美晴は息子の顔を見つめた。
何か、すぐにでも言ってあげればよかった。美晴は、慌てて言葉を探した。けれど、胸を突いた思いは、言葉どころか呼吸も許さず、見つめ合った親子の間には微妙な緊張の空気が張りつめた。
思えば圭とは、カケルが出て行ってからあまりしゃべってない。長い長い夏休み、圭は一体、何をしていたのだろう。
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