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【連載小説】「緑にゆれる」Vol.89 第九章


 何か、言おうとしたのだけれど、口がカラカラに乾いてしまって、美晴はごまかすようにコーヒーを一口、口にした。

 自分たちが気づかなかった愛。避けてきた愛。それを、静かに見守っている人がいた。そう思ったら、たまらなくなって、美晴は思わず両手で顔をおおった。もう、ごまかせない。うそも、つけない。

「美晴ちゃん?」
 マリが、やさしく問うように呼びかける。
「抱きしめられたの。後ろから」
 おおっていた手を下ろして、吐き出すように言う。

「私はお皿を洗っていて、手を放したら、お皿がゆらゆら揺れながら、たらいの底に沈んでいった。それ見たとき、あ、見えちゃった、と思った」
「……何が?」
「二人で暮らしながらカフェやって、彼がお皿洗ったりコーヒーいれたりして。時々、彼の昔の友人たちも遊びに来たりして。その中には、第一線で活躍しているカメラマンさんとか、脚本家とかがいて。あー、昔おれも、そういうとこにいたな、って、私の隣でつぶやくの。おれにも、夢があったんだよね、って。それから、でも、こう言うの。〝これはこれで、幸せだけど〟」

 美晴は、一気にしゃべると、ふいに口をつぐんだ。
「そして、ある日、ふいっと出て行ってしまうの」

 目の前のマリの表情が、一瞬固まったのが分かった。
「だめなんだ、って、思った」
 マリの、透明な瞳が見ている。

「一緒に、沈没しちゃ、だめなんだ。きっと、私たち、このまま一緒に溺れてしまう。それじゃ、だめなんだ、って、体の奥が叫んだの」
 両手を組み合わせて、祈るように額にこすり合わせる。
「彼を失いたくない。でも、彼らしさを、失ってほしくないの」
「……美晴ちゃん。どうして……思い合っているのに」
 ひとつひとつ、かみしめるように、マリがうつむきながら言う。
「幸せになっちゃ、だめなの? それは、悪いこと?」
 必死に首を横にふりながら答える。
「分からない。自分でも、なぜそうしてしまうか、分からないの。一緒にいられない道を、選んじゃう。でも、ふつうに、結婚とか、できない、と思ってた。子どものころから、何となく」

 カラン、と音を立てて、マリのグラスの氷が崩れた。透明で、美しいものが、崩れるとき。そういう瞬間は、少女であるだれのところにもやってくる。ふいをついて。むしろ、暴力的に。
 いつも自分の中に巣食っていた、忘れたい記憶が、仄暗く立ちのぼってくる。
 美晴は、テーブルについたアイスコーヒーのグラスがつけた水の輪を、台ふきんでさっとぬぐいながら、なるべく平静をよそおって言った。
「おかわり、入れますね」

 そのときも、同じように、グラスの水滴でテーブルにいくつも水の輪ができていた。法事で集まった親戚の人たちに、中学校の制服でお茶を出した。グラスを引くとき、テーブルをふく美晴の横顔から白い腕に、目が注がれる。
「美晴ちゃん、色っぽくなったね」
 聞きまちがいかと思った。自分より十ぐらい年上の、それは若い親戚のおじだった。伸ばしていた半そでの手を、慌ててひっこめた。
「法事でね、」
 美晴は、マリに背を向けたまま、言った。おかわりのコーヒーを用意しながら。
「制服がなくなったんです。私の。セーラー服が」
 マリが、ほおづえを外して、こちらを見た。
「それ盗んだの、私のおじさんで。でも」
 おかわりのコーヒーを運びながら、美晴は言った。
「それが発覚したあと、おばあちゃんが言ったの。気をつけないと。年ごろだから。色目つかって。って。でも、私、そんなことした覚えない」
 黙って聞いていたマリの目の色が、みるみる怒りの色へと変わった。
「よく分からないんだけど……何ていうか、もう、そのときから、いけないんだ、って思った」

 おかわりのコーヒーを置くのとほぼ同時に、マリがテーブルに両手をついて立ち上がったので、美晴は心底驚いた。もう一秒、早かったら、たぶんコーヒーグラスを倒していたと思う。

「美晴ちゃん、だめ」

 自分を見つめる瞳の強さに半ば気おされて、美晴は気持ちのけぞった。
「何が、ですか」
 マリの瞳は、真剣そのものだった。
「欲しがることに、罪悪感を持っちゃ、だめ」

 見つめ合って、二人は、瞬きを忘れた。かつて少女だった者同士にしか分からない、鏡を見るような同じ瞳を、互いの中に見た。
 マリには、分かったのだ。言葉で語らなくても。それは、美晴にとって奇跡の瞬間だった。女であること。それが巻き起こしてしまうざわめきと、それによって傷つく性。その痛みと罪悪感を胸に秘め、生きてきたことが。分かってくれた。
 顔を上気させて、マリは美晴の手をとると、咳き込むようにして言葉を続けた。

「素直に愛に飛び込んでいけないのは、自分のせいじゃないよ。きっと、そういう他人が。心ない人がつけた、傷のせいだよ」
 痛いほど、手を握られている。そこから、熱が伝わってくる。
「でも、その傷に、負けちゃだめ。そんなものに、自分の人生つぶされたら、負けよ」
 忘れていた瞬きをした。涙がひと粒、転がり落ちていた。一粒の真珠が落ちるように。

「大丈夫、あなたは、大丈夫だから。本当の愛を、いっぱい持っているから。カケルが帰ってきたら、その時は、その愛で包んであげて」
「マリさん……どうして」
 再び瞬きを忘れて、マリの顔を見つめた。
「分からない……」
 マリは、ちょっと困ったような顔になった。
「分からないけど、何か、背中をおしたくなっちゃうの。美晴ちゃんも。……カケルも」
 そして、困ったわね、という顔のまま、笑った。
「こんなこと、言いに来たつもりじゃなかったのにな」
マリは、窓のそばまで行くと、離れの方を見ながら言った。
「本当は、カケルに、ちょっとお礼が言いたくて来たの。この前、再会して、自分の中の霧が晴れたから」

 それからマリは、最近、自宅のあるマンションのオープンルームで、幼児相手の英会話教室を始めたこと、ゆくゆくは子どもまで教えたい、と思い始めていることを語った。そして、ちょっと人生に新しい風が吹いてきたみたい、と言って笑った。カケルが帰ってきたら、よろしく伝えて、とも。
 さわやかに髪をなびかせて帰って行くマリを見て、自分は何て危険なところにいたのだろう、と思った。ベランダにひじをついて木々を眺める。ヒグラシが鳴いている。もうすぐ、本当に夏が終わる。

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