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令和阿房列車論~その35『時刻表昭和史【完全版】』(5)急行701列車新潟行

前回のおさらい

毎週各章ごとに書評をしていく記事ですが、相変わらず読書の習慣がほとんどないのが痛いです。


第5章 急行701列車新潟行〜昭和12年

昭和初期の鉄道事情

昭和時代に入って特急列車に愛称がつけられて華やかな時代に見えますが、それは東京駅を出発する大阪方面の列車だけで、上野駅から出発する青森方面や新潟方面の列車は愛称のない急行が日に1、2本ある程度でそれ以外は普通列車が長距離輸送を担っていた時代でした。

宮脇俊三が新潟に行きたがっていたのは当時の小学校の国語の教科書である第四期「小学国語読本」の8巻目の最後に「清水トンネル」という教材に惹かれたからでした。
まだ小学生だったとはいえすでに時刻表の愛読者だった宮脇少年は、文中にあるように「一人ででも行きたかった」とありました。

新潟行に乗れた理由

それが昭和12年に宮脇少年の願いが叶えられたのでした。

当時、宮脇俊三の2番目の姉の嫁ぎ先が新潟へ転勤になった事情があり、この年の夏休みに母とともに新潟に行くことになったのです。

昭和12年8月12日、宮脇少年は(タイトルにある)急行701列車新潟行に母とともに乗ったのでした。
本作品は1980(昭和55)年7月に単行本として発表されたものとはいえ、急行701列車新潟行の記述の表現には小学生の記憶とは思えないほど詳細に観察していたなぁと感じました。

私の10歳〜昭和52年

10歳当時の私(a-ki阿房列車)はまだ根室で生活していました。

北海道の東の最果ての街に住み、前回の記事で紹介した急行ニセコ2号を利用してもおおよそ半日を要するので旅行といっても道東から出る旅行は全くと言っていいほど出来ませんでした。

小学5年だった昭和52年の夏、家族旅行で阿寒湖に行く予定でしたが、弟が熱を出して私と父の二人で阿寒湖に行くことになりました。

父は自動車運転免許を持っていなかったので、釧路までは鉄道で行き、釧路から阿寒バスに乗って阿寒湖畔まで行きました。
当時の阿寒湖畔まで行く阿寒バスは、今の路線タイプと観光タイプの中間といったバスで、座席こそ二人がけのいわゆるロマンスシートと言われるタイプでしたけれども現在の路線バス寄りの設備だったと記憶しています。

現在(2020年当時)の阿寒湖畔行きバス車内
(都会の路線バスとほとんど変わりません)

特に記憶に残っていたのは、帰りの途中で父が出張のために釧路から根室まで一人で根室まで帰ったことでした。
今でこそ一人旅は苦ではありませんが、まだ小学生だった自分にとって不安でいっぱいで根室までの3時間は本当にびくびくしていました。


時代や環境は違えど、私も宮脇先生も鉄道に対する造詣はよりいっそう深まっていくのでした。

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