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令和阿房列車論~その34『時刻表昭和史【完全版】』(4)不定期231列車横浜港行

前回のおさらい

毎週各章ごとに書評をしていく記事ですが、相変わらず読書の習慣がほとんどないのが痛いです。


第4章 不定期231列車横浜港行〜昭和12年

2・26事件

この年の前年の昭和11年、宮脇俊三は自宅のある池之上から帝都電鉄(現在の京王井の頭線)を渋谷まで乗り、さらに渋谷から東京市電(現在の都電)に乗って青山にある小学校まで通学していました。宮脇俊三の父は国会議員にまでなった人物ゆえの話ですが、この当時にして電車通学する小学生は相当の身分だったと思われます。

2・26事件は永田町にあったら首相官邸、四谷の内大臣私邸、赤坂の大蔵大臣私邸などが一斉に襲撃された事件です。
その2月26日の朝は大雪だったこともあり、市電が止まっていました。その雪の中を宮脇少年は歩いて小学校に向かったものの、学校に着くと先生から帰宅を告げられたエピソードが本書に書かれています。

本書には当時の東京市電の「乗りかえ切符(現在でいう一日乗車券?)」が載っており、その切符には当時の市電路線が網羅されています。

◯◯港行の列車

昭和12年当時の鉄道事情も描かれています。

本章のタイトルにある「横浜港行」に限らず当時の外国旅行が海運が主だったので、国際客船の出港日に不定期列車として主要な港までの接続列車が運行していました。
関西であれば神戸港、九州であれば長崎港であり、他にも敦賀港などがあり、これらの港まで接続列車が運行していました。

昭和12年8月5日、宮脇俊三の父が世界一周旅行に出かけるために横浜港から乗船する際に宮脇俊三の家族は不定期列車横浜港行きに乗ったことが記載されていますが、その時の状況が詳細に書かれているあたりは小学生とは思えない観察力を感じました。

私の9歳〜昭和51年

9歳当時の私(a-ki阿房列車)は道東の根室で生活していました。

令和の今でこそ根室駅を出発する列車は快速を含めてわずか6往復しかなく全て釧路までしか行きません。けれども、昭和51年当時は急行だけでも上下3往復走っており、そのうち上り急行「ニセコ2号」はグリーン車(指定席)付きの3両編成で(さらに釧路から普通車が増結されて)札幌を越えて函館まで走る長距離列車でした。

当時、上り急行「ニセコ2号」は午前8時30分に根室駅を出発していました。
平日は小学校に通っていたので聞こえなかったのですが、学校が休みだった日曜日には8時30分になると当時住んでいた家から「ニセコ2号」の汽笛が聞こえてくると小学生ながらにいろいろな思いをはせていました。


時代や環境は違えど、私も宮脇先生もこの年代で鉄道に対する造詣はいっそう深まっていくのでした。

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