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「夢を叶えること」と「夢を持つこと」は同じじゃないし、アンパンマンは君さ

「君の将来の夢は、なんですか?」

学校で配られるこの手の質問用紙には、いつも困らされていた。

僕という子どもには「夢」が無かったからだ。


五体満足で、健康状態も良好。

だからって、都合よく「夢」があると思うなよ。


まあ、流石に白紙で提出するのは色々まずいのだろう、ということは子どもながらに理解できるので、保育所の卒園アルバムには「レーサー」、野球を始めた小学校3年生には「プロ野球選手」と書いた。

真っ赤なウソだ。

どれも僕のリアルな夢ではない。教室に漂う同調圧力をいなすためのその場しのぎの回答にすぎなかった。

だから叶わなかった。そしてもちろん、叶わなかったことを悔しいとも思わない。

それは僕の夢では無かったのだから。


今日は、「夢を叶えること」と「夢を持つこと」は同じじゃないよね、ってことを、ちょっと整理して書いておきたいと思います。


これは割と大人になってから気づいたことだが、「夢」と「お金」はとっても密接に関係している。

個人の才能が「職業」として認められるためには、「社会的な評価」というものが必要である。

具体的には、「お金を稼げること」

僕らの住む「資本主義社会」では、社会的な信用は「お金」によって数値化され、可視化される社会だ。


そして「お金」は、1人でいても稼げない。社会との接点に生まれるものだ。

つまり、そこには他者との交流が必要で、他者との交流によって、人は価値を与えたり、受け取ったりしている。

その結果として、ある人の能力が「職業」として成り立ったり、成り立たなかったりする。

この「職業」を社会において成り立たせるためのツールとして、「お金」がある。


コロナショック以前には、毎晩お店を開けていられた居酒屋の店長さんも、緊急事態宣言などで他者との交流が不可能となれば、お客さんに居酒屋の店長さんとしての価値を提供できずに、「職業」として成り立たなくなってしまう。


「お金」は社会に流れる血液みたいなものだ。

だから、お金の流れがどこかで止まってしまうと、どこかの細胞が死んでしまう。

お金は止まらずに流れているのが、社会を健康に保つための1つの条件だ。


社会は「お金」で回っていて、個人の能力が社会の中で「職業」として成り立つためには、お金の流れの中に入っていることが必要条件なのだ。


そういうことを、小学生の時の僕は知らなかった。

社会の授業もまじめに聞いてなかったせいかな?

じゃあ、こうした資本主義社会の仕組みを知っていれば、僕は夢が持てたのだろうか?


答えは、ノーだ。


社会の仕組みについて知ることは「夢の叶え方」であって、「夢の持ち方」とは別だ。

お金を稼ぐのは、あくまで「HOW」

でも、夢っていうのは「WHY」なんだ。


つまり、「なんのために生きるのか?」ってこと。

アンパンマンマーチみたいだよね。

でも、本当にそういうことだと思う。

なんのために生まれて
なにをして生きるのか?
こたえられないなんて
そんなのはいやだ!

(アンパンマンのマーチ/作詞:やなせたかし より)


そして現代では、HOWよりWHYを知る方が難しい。


お金の稼ぎ方を学ぶコンテンツはたくさんある。

でも、自分に固有の「夢」の掘り出し方が学べるコンテンツはとても少ない。

つまり「夢の叶え方」よりも「夢の持ち方」を知る方が、難易度が高いんじゃないかな?


学校で実際に子どもを指導されている先生方も、そう感じていらっしゃるんじゃないだろうか。

僕は教育の専門家でもなんでもないので、義務教育の現場のことは分からないけれど。

少なくとも、教科書を読むだけじゃ、教室の机の上からじゃ、「夢」は見つからなかった。


第一、「夢」って言葉もあやしいもんだ。(お前が最初に使ったんだろ)

僕はこの「夢」って言葉がどうも気に入らない。(お前が言い出したんだぞ?)


「夢=Dream」ってのは、寝てる時にみるアレのことでもある。

アレは、見るには見るが、目が覚めたら忘れてしまう。

起きた瞬間には覚えていても、布団を出て10秒もすれば消えてしまう。

アレが「夢」ってやつだ。


もともと平安時代には、「ゆめ」は「いめ」と発音されていたらしく、漢字も「寝目」と書いていたそうだ。意味は「はかなさ」である。

「将来の夢」みたいな使われ方をし出したのは、明治以降なんだとか。


夢は、肉体を持って生きている人間には、捉えるのがとっても難しい雲みたいなもんなんだ。

おぼろげで、あいまいで、おぼつかないモヤのようなものだ。

「将来の夢」ってのが、多くの人にとってフワフワしちゃうのも無理はないよね。


そんなフワフワを、なんの具体的な指導もなしに、アホな小学生へ向かって、いきなり紙に書け!言語化しろ!なんて言うんだから、学校という場所はどうかしてるよ!(ただの恨み節です。すみません)


つまり、「夢」ってのはガチガチに個人に帰属しているものではない、てことだ。

それは社会との接点、他者との間で「実現」されるものだし、そのビジョンは雲のようにフワフワとあいまいな場合が多い。

そして、世間一般で手に入る情報の多くは「夢の叶え方」、HOWだ。


けれど、それではアンパンマンマーチに答えたことにはならない。

なんのために生まれて、何をして生きるのか?

この問い=WHYに、人間はどう向き合えばいいのか?


ちなみに、アンパンマンマーチの2番の歌詞はこう

なにが君のしあわせ
なにをしてよろこぶ
わからないまま おわる
そんなのは いやだ!

(アンパンマンのマーチ/作詞:やなせたかし より)


アンパンマンマーチの言うことを丸呑みするならば、あくまでもWHYに答えるためのヒントは、「君自身」を知ることにありそうだ。

やなせたかし先生が言うんだから、間違いない。


「夢の叶え方」というHOWが、「社会の仕組み」を知ることで学べるものだとしたら、「夢の持ち方」というWHYには、それとは真逆のアプローチで迫っていく必要がある。

それは、「君自身」「自分自身」について知ることだ。


でも、どうすれば「自分自身」を知ることができるのだろうか?

この続きはまた今度。






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