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どんぐりは言う。お前はもう死んでいる。それでも、生きろ、と。

どんぐりは尊い。

機能的にも、情緒的にも、どんぐりは尊い。

とても尊い。


以下、一方的にどんぐりを推します。

読んでもビジネス的な教養が得られたり、この息苦しい世の中での生き方のヒントになるようなものは、何も得られないでしょう。

直接的にも間接的にも、あなたの人生に指一本ふれることの無い、無力極まりない文章となるはずです。

あってもなくても、特別なんの影響も及ぼさないような、そんな代物。

ただ足元に転がり、季節の只中でひっそりと運命を受け入れるだけの慎ましやかな存在。

まるでどんぐりのような


さて、これから始まる文章では、どんぐりを「機能面」と「情緒面」の2方面から推す。


まずは機能面から。

これは言わずもがな、どんぐりとは種であること。

つまり、発芽すれば根を張り、やがて大樹となること。

そこに尊みがある。ありすぎる。


あの小さいコロコロが?

そう。あの小さなコロコロが、天まで届くほどの大樹になる。なりうる。そんな可能性が秘められている。あのコロコロの中に。


その辺りのプロセスは、となりのトトロに詳しい。

あの小さな茶色いしずく型のコロコロが、長い時間をかけて森になる。

夢だけど、夢じゃなかった、ホントの話だ。


どんぐりなくして森は無く、森なくして霊長類の繁栄なく、霊長類の繁栄なくして人類の進化もあり得なかった。

どんぐりなくして人類なし。

人類なくしてぼくも君も無し。

はじめにどんぐりありき。

新約聖書には、そう記載されているとかいないとか。

どんぐりは尊い。


機能面から、もうひとつ。

どんぐりは食べ物にもなる。


どんぐりは種だが、すべてのどんぐりが発芽するわけではない。

根を張るのはほんのひと握りだし、木になるのはそのまたひと握りだ。

その他の大半は、虫や鳥や動物たちの貴重なカロリーになる。


中でも特筆すべきは、リス×どんぐりの、あの組み合わせだろう。

あの茶色いコロコロとした小粒を、頰のスペースいっぱいに貯めているリスの姿は、とても尊い。

その破壊力たるや。

惑星の磁場を狂わすほどだ。

カラダと同じくらい長くて太いモフモフとした尻尾を垂らしながら、半身を起こし、視線を上げ、周囲を確認しながらも、ほっぺは沢山のどんぐりでパンパンに膨らんでいる。

そんなリスの姿はとても尊い。

童話の中だけの話なのだろうか?


どちらにせよ、動物にかじられるどんぐりは、森林のカロリー源としてもかなり尊い。

大樹になる夢をあきらめ、その運命を動物たちの明日をつなぐために譲り渡しているのだから。

どんぐりは尊い。

まったくもって、尊い。


そして、お気づきだろうか?

このリス×どんぐりの尊みは、すでに機能面の尊さをハミ出し、情緒面へと進んでいることを。


そうなのだ。

リス×どんぐり、という童話的なイメージは、システムまみれの現代に暮らすぼくらの情緒面を柔らかくサポートする。

ああ、なんだか自分は優しい世界に住んでいるのだなあ

という安堵感をカラダに思い出させてくれる。

それが、リス×どんぐりが持つ情緒的な尊さだ。


そうさせるのは、やはりどんぐりに独特なあの「フォルム」だろう。

茶色く、ツルツルとして、光を反射させる光沢がある、あのしずく型の物体。

思わず手を伸ばして拾い上げたくなるのは、もはやDNAレベルでこの血に刻まれた感情だ。


ああ、ふれたい。


そんな欲望の奴隷に、人間を堕落させる。

瞬時に。あっ、という間に。



その手触りといったら、木に特有の深いぬくもりを備えておきながら、同時に驚くほど無防備な軽さなのである。

深い叡智をそなえた賢者のようであり、かつ何も知らない赤子のような、そんな矛盾した肌ざわりが矛盾なく同居している。

この世の奇跡がそこにはある


その表面のつるつるは、現代科学の粋を集めたとしても再現不可能であろう。

まるで人肌と溶け合うために存在するような硬さ。

硬さの中に柔らかさをはらんだ、絶妙な硬さだ。


そうしたどんぐりは、都会の真ん中でも容易に見つけることができる。

公園で、ふと足元をみれば、そこにコロリと転がっている。

無論、日本だけに限った話ではない。

世界中にどんぐりは落ちている。

いつでも、どこでも、アクセス可能だ。

都会の無限サブスクリプション。

それがどんぐりだ。


それを拾い上げる、という行為は、すでに大人になってしまった人間にとっては大いなる余白の証明ともなる。

なぜなら、どんぐりを拾うなどという行為ほど、無意味なことはない。

リスでもない人間にとって、どんぐりはなんの役にも立たないのだから。

それよりも、溜まったネットニュースに目を通し、レコメンドされた動画を消費したいだろう。


だが、どんぐりがその流れを堰き止める。


なぜか、それを拾い上げたくなる。


そういう種類の感情が、ぼくらの中にはある。たしかにある。


その、子どもの頃よりも幾分、いや、かなり固くなった足首、ひざ関節、股関節や腰を折り曲げ、身をかがめ、その茶色く小さなコロコロを拾い上げる時、人はみずからの情緒を拾い上げているのだ。


情緒を?


そう。情緒を、だ。

そこで拾い上げられるのは、もはやどんぐりでもない。どんぐりを拾うという体験を通じて現れている、情緒そのものだ。


情緒、そのもの……


そこに落ちているのは、この都会に、そこでのラットレース的な日常に、いつのまにかベルトコンベアー式に進んでしまった人生に、疎外されていたその人の情緒そのものなのである。

ゆえに、どんぐりは尊い。

それは、その人の情緒の尊さそのものなのだから。


世界中の都会の公園に、林道に、そこかしこに落ちた、無数のどんぐり。

星の数ほどある、どんぐり。

身をかがめれば、いつでも手が届くところにあるそれが、いつの間にか拾い上げることをやめてしまった情緒を、スタジオジブリが守護する種類の人間性を、この都会で生きる人々に担保している。


だからいつでも、身をかがめ、それを拾い上げてしまえばよい。

その固まった足首と、ヒザ関節と、股関節と、腰に、過ぎ去った歳月の重みを感じながら。

もう戻ることのない、季節の面影を思い出しながら。

拾い上げろ、そこにある情緒を。


ふれろ。

そこにあるどんぐりに。


考えるな、

ふれてしまえ。




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