五美大展と空想エッセイ 2024年3月【1】
2月29日、国立新美術館(港区)で五美大展を観てきた。5つの美大の卒業制作の展示だ。この記事では、気に入った作品をいくつか取り上げる。
ただし作品の紹介ではない。作品を観て私が思い浮かべたことを書く。主体は作品ではなく私。レビューではなくエッセイ。それを了承の上、読み進めてもらいたい。
林美桜「白昼夢」。なんていい表情なのだろう。彼女たちの内面を想像したくなる。ずっと見つめていたいし、ずっと見つめられていたい。お互いがお互いの目を見つめて、お互いの心を探り合うのだ。言葉は記号に過ぎない。記号になる前の内面を探り合うのだ。
作者とタイトルを控え忘れた。お腹に刺さっている物体が何を表しているのかはわからない。私はただ女性の体の形が気に入った。
こういうものをつくるのは楽しいだろう。毎日女性の体をなでることができる。大量生産の市販品でも可能だが、つくり手の心が感じられない。現実の女性は物体ではないから、そういうことはできない。
女性の体を自分でつくったことはないが、きっと大いなる喜びがあるはずだ。自分だけの女性の体。独り占め。永遠に私だけのもの。いい気分に違いない。
こちらも作者とタイトルを控え忘れた。こういった女性の人形があれば、一人暮らしでも寂しくないと思う。私のように、女性に対する性欲に振り回されている男性は、絵画でも彫刻でも人形づくりでも、何か女性を創造するといいのではないか。
性欲を抑えつけるのではなく、創作活動にぶつける。そうすることで、性犯罪の抑止にもなるのではないかと思う。よく「被害者の気持ちを考えろ」などと説教を垂れる人がいるが、そんなものは激しい欲求の前では無力だと常々思う。
余談ながら、私は思春期から今日に至るまで、性的な物語と絵を大量に生産してきた。性欲に振り回される自分の内面を書き綴ってきた。それらが性犯罪の抑止につながっているか否かはわからないが、とりあえず警察沙汰を起こすことなく、ここまで来られた。
大森咲耶「self-defense」。自己防衛という意味だ。こういう影のある若い女性の絵はいい。
素敵な若い女性は漫画やアニメにたくさん登場するが、その多くは性を売っている感じがある。やたらに胸が大きく、スカートが短い。理由もなく頬を染めている。しょっちゅう「サービスシーン」がある。そういうものに嫌気が差した。
私はあくまでも理想の女性を追い求めている。その場所が漫画やアニメから絵画や彫刻に移ったのだ。
若い女性だけが好きというわけではない。30歳を過ぎてからは、中年以降の女性にも魅力を感じるようになった。いや、なってしまったと言うべきか。心を乱される対象が広がってしまったのだから。
長屋有香「大日如来像『こころゆるび』」。若い女性の大日如来だ。素晴らしい。私は常々、私の神仏は女性でなければならないと思っている。男性の神仏を信仰する気になれない。
仏や菩薩に性別はない。観音様は、しばしば女性的に描かれるが、ヒゲが描かれていることも多々ある。冗談ではない。
私の神仏は女性でなければならない。私は女性の神様に抱きつきたい。女性の神様に抱かれたい。神様はみんなのためにいるのではない。私のためだけにいる。私だけの神様は断然女性でなければならない。
私の女神様はあまり若くてはいけない。私は女性を守るより、女性に守られたい。だから若い娘ではいけない。落ち着いた、母のような存在でなければならない。
龍前友貴「戯れ」。二度と戻らない青春の日々といった感じがある。それにしても、このセーラー服を含め、女子学生用の制服が中学や高校でしか着られないのは惜しいことだ。いつまでも着られたらいいのに。いや、着られるべきだ。着られなければならない。
あんなに素敵なものが、人生初期の数年間しか着られないのは悔しい。到底納得できない。特に制服のプリーツスカートには、他の追随を許さぬ美と、唯一無二の着心地がある。あの独特のザラつきに、私の皮膚は陶酔する。
そして男性の着用も許されねばならない。そんなの気持ち悪いって? とんでもない。セーラー服は元々男性の衣服だ。スカートが女性の衣服などというのは、実につまらない固定観念。多くの民族で男性がスカートを穿いている。
スコットランドのキルトが有名だが、日本の着物もスカートの一種だ。素晴らしい衣服を、ティーンエイジャーの女の子だけの衣服にしてはいけない。
神辺夏海「受恋告知」。受胎告知ならぬ受恋告知。「あなたは恋をしましたよ」と天使から告げられるということか。恋をしたということそのものを一大イベントととらえているのがいい。
相手が描かれていないので、観るほうは自分が相手のような気がして楽しい。この女の子は私に恋をしている。これは客観的真理ではないが主観的真理ではある。
客観的に真理であるか否かを判断するのは他者だが、主観的に真理であるか否かを判断するのは私だ。この子の恋の相手が私であると私が判断するなら、それは主観的には真理なのだ。
ただしこの思想は脆い。口に出した途端に客観的評価を受けることになり、彼女が私の恋の相手という主観的真理は崩れ去る。
主観的真理は私の心の中でのみ輝く。そこから一歩でも出たら、私対全人類、1対80億、多勢に無勢、孤立無援、四面楚歌、絶体絶命の戦となる。ゆめゆめ口に出してはいけない。この恋は、私と私の心の中の少女の、ふたりだけの秘密なのだ。
近藤弓唯香「したためる」 。いろいろな調度がお洒落。女性は冷めた目をしている。服は優雅だが、お嬢様という感じではなく、どこか庶民的。顔もそれほど美人とは言えないし、抜群のプロポーションというわけでもない。
しかし何とも言えない色気がある。大きくあいた胸元、腕、そして素足。意外にも露出が多い。そういうところに惹かれてしまうのだろうか。
結局、最大の魅力は彼女の目つきなのだ。私を歓迎する目つきではない。今気付いたが、ネックレスをしていない。このままでは首元が寂しい。何か装飾品がほしいところだ。
そのわけを考えてみる。こういうことではないだろうか。素足というところからもわかるように、彼女は今、人前に出る状態ではない。冷たい目は、私を見下しているわけではない。よそ行きの顔ではないだけなのだ。
そこにこの絵の魅力がある。つまり彼女のプライベートを覗き見ている感じがするのだ。だから私は背徳感を覚えて、気持ちが高揚する。
芸術鑑賞とは、作品を観て楽しむことだ。でもそれだけではない。作品を観ることで内面に生じる思考や感情や空想を楽しむことでもある。
芸術作品は、私たちを豊かな内面世界へと案内するツアーガイドなのだ。それはアーティストだけが持っているものではない。誰もが持っているものだ。
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