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【長編小説】 異端児ヴィンス 4

 ラテン系の美女は、ヴィンスを残して帰っていった。彼女の席が空き、またちょうどそのとき満席だった我々のテーブルに常連のひとりであるアンソニーが近づいてきたので、私は彼に席を譲り、カウンターのヴィンスの隣に移動した。
「今夜はすごい美人を口説いてたじゃない」
 私は声をかけた。ちょうど一杯目を飲み終わったところでパトリックに向かって二杯目を注文していたヴィンスは、フゥ~ンと長く酒臭い息を漏らした。
 始まるな、と、私は身構えた。
「そりゃあな、あの女は美人だったよ。いい匂いもしてた。……でもな、綺麗な女だって、結局は同じことよ。いいか、このうす汚れた俺とあの女とではな、生き物・・・としてはこれっぽっちも違いはねえんだぜ。……考えてもみな、ああやって自分の綺麗さを鼻にかけてツンとすまし返ってる人間でもよう、毎日コマメに風呂に入って洗わなきゃあ、まあ遅くても三日目にはおぞましい臭いがしてくるぜ。いや、それどころかシャワーを使って完全に清潔になったと思ってもな、バス・ルームから一歩出た瞬間から、もうお肌と仲のいいバイ菌たちが、繁殖のヨロコビに打ち震えてるってわけさ。ハハハー!
 ……どうだい、こんな風に人間というものがただの有機物に過ぎないって実態をわかってみると、人の容姿なんてもなぁ、どーうでもよくなっちまわあな。な、そうだろ?」
 私は彼につられて笑った。まったく、あんな美人を口説いていたすぐあとに、いくら振られたからといってこんな風にてのひらを返すような話がよくできるものだなと、なかば感心しながら……。しかし、これが調子のいいときのヴィンス節なのだった。そして、またぞろそんなひねくれたことを言いながら、美しい女性を眺め続けていたことで彼が明らかに上機嫌になっていることを認めた私は、彼のことを微笑ましいと思った。そしてますます、彼に対して怖いもの見たさのような奇妙な興味が湧いてくるのを感じるのだった。
 ヴィンスは続けて言った。
「……俺はインドにも行ったことがある。あの国ほど、清潔と縁遠い国はない。家の外で用を足すのは当たり前だし、何日かに一回でも風呂に入って体を洗う習慣があるのかどうか、めっぽう疑わしいぜ……。ところがな、あいつらお肌と仲のいいバイ菌たちを、飼い慣らして・・・・・・いやがるんだ。なげえこと不潔な生活を続けてるとよ……、それが当たり前になり、いつしか鼻のほうが慣れてくるのさ。むしろ小気味いいくらいだよ」
 すると私の隣にいた常連のひとり、ラングドンが
「デタラメさ。想像で喋ってるだけだ。あいつはインドになんか行っていない」
 と小声で耳打ちしてきた。
「おい!」
 突然ヴィンスが狂気のような声を上げた。
「聞こえてたぞ、お前! じゃあ言わせてもらうがな、実際に行ったか行かなかったかなんて大した問題じゃないんだ。大切なのは、その土地を知り、風景を見聞きして、そこから何を汲み取るかだ。そして、何を感じるかなんだ。何も感じない奴は、たとえ現地に行ったって、何にも得やしない。そんな奴がインドに行こうが南極に行こうが、人生に何も起こりゃしない。何かを得る奴は、トロントに行ったって何かを得て帰ってくる。ハッ。旅行に行く前と行った後では、自分の中でほんの少しでも後戻りのできない変化が生じていなければならない。そうじゃなきゃ、何処に行っても何の価値も無いのさ」
 私はヴィンスが本当にインドに行ったのだろうと思った。勿論、精神で。我々には理解し難い彼独自の世界で、シヴァを見、クリシュナと面会し、女神カーリーに会っておののき、聖なるガンガーに身を沈めて慰めを見出してきたに違いない。その世界はヴィンスの口からしか語られることはできないし、我々は我々個人の耳でしかそれを聞くことはできない。そしてそれを受け入れ、咀嚼そしゃくし、どんな風に自分のものにするかもまた、我々次第なのだ。
 多くの人はこんな何の為にもならない戯れ言としか言えない話を、右から左に軽く聞き流してしまうだけだろう。けれど私は違った。〝物好き〟と言ってしまえばそれまでだが、ヴィンスの言うことに、私の中の何かが反応するようだった。
 
 
 ――念願叶ってモントリオールで暮らし始めた後でさえ、元々極度の憂鬱症に陥っていた私は、その回復途上にあるような状態だった。テオはそれをよく理解してくれたけれど、私の憂鬱を根本から取り去ることがいかに難しいかということを、日々の生活で痛感せざるを得ないようだった。
 ウィークデイ、毎朝テオは7時に起きて、自分で朝食を作り、仕事に出かけて行った。彼は公務員で、モントリオールの市庁舎で働いていた。彼は毎朝砂糖とミルクを入れたインスタント・コーヒーを飲み、ピーナッツ・バターを付けたトーストを二枚サンドウィッチにして食べる。ときにトーストの間にスライスしたバナナが挟まることもあるが、基本的に朝はこのメニューと決めている。
 私は彼がスーツ姿も颯爽と地下鉄へ向けて歩いて行くのをバルコニーからパジャマ姿で見送り、自分のために何か食べるものを探そうと冷蔵庫を開ける。夏の間は特にだが、少しでも冷蔵庫の扉を開けっ放しにして中を見ていると、電気代が上がるとか何とかで、早く閉めるよううるさく言われていたので、秋口になって涼しくなってきたのは有り難いことだった。外気温が低くなると、冷蔵庫もそれほど電気を食わなくなるのだそうだ。お坊ちゃん育ちのくせに、テオはときに小さなことにひどく口うるさい。
 冷蔵庫の中には何もなかった。飲みかけのオレンジジュース、韓国人の食料品店グロサリーで買ってきたキムチの残り、果物入れにリンゴが二つとグレープフルーツが半分。扉のポケットには封を切っていないチーズがあったが、わざわざ開けようという気は起こらなかった。
 仕方なく私は自分のためにコーヒーだけ入れることにした。いつものことながら、朝は食欲がない。それに、レストランの仕事は今日は夕方入りのシフトだから、出かける前までに何か食べておけばいいと思った。
 私は砂糖もミルクも入れないブラック・コーヒーを入れた。今朝は夢見が悪くて頭がスッキリしなかったからだ。こんな日、私は果てしなく怠惰な気分になる。

 一一夢の中で、私は誰かを見舞いに病院に来ていた。誰のお見舞いだったのかはわからない。ただそこは、日本の病院だということだけは確かだった。
 受付で病人の部屋を訪ねようと待っていると、入院患者のひとりと思しき人が、大きなしっかりとしたナイロン袋の中に、長さが二十センチほどもある大きな金魚をぶら下げて廊下を歩いていった。
「大きな金魚だなあ……」
 と私が呟くと、そこにいた看護師がクスリと笑って、
「あら、あんなもんじゃありませんよ、うちの金魚は……」
 と言い、私をナースセンターのような場所に案内した。
 そこには大きな水槽があったが、水かさは半分ほどしかなかった。そしてその中に巨大な金魚が〝横たわって〟いた。水槽の中にはほかにも二、三匹のそこそこ大きな金魚がいたが、その特大のものは、水かさが半分しかないために、体を横にして苦しそうにあっぷあっぷしているのだった。
「○○先生、そろそろ水を入れ替えないと……」
 看護師のひとりが医師らしい白衣を着た若い男に言った。医師は、すでにもう体の半分を空気に晒され、いかにも苦しそうにあえいでいる金魚をさも気軽そうに見遣ると、「そうだなあ」と呑気な声で言った。
 見ると、その水槽の奥にはもうひとつ別の水槽があり、中には一匹だけ、手前の水槽の中の巨大な金魚に比べればひとまわり小さいぐらいの、しかしやはり特大サイズの金魚がこちらを向いてぷかりと浮いていた。
 らんちゅうだな。
 私は思った。よく見ると、頬の辺りがふっくらとして、目が細く、まるで日本人形のような可愛らしい顔をしている。全体に白い体に、顔のところだけがほんのり赤いのもまた愛らしかった。
 医師と看護師は、やおら金魚の水槽の水替えを始めたらしかった。定期的なルーティン作業になっているのだろう、彼らの動きには無駄がなく、むしろ少し億劫おっくうがっているような様子さえうかがわれた。
 やがて私は、自分が見舞うべき病人の部屋へ通された。その部屋は狭く、床といい壁といい天井といい、すべて曖昧なベージュ色で統一されていた。そのためまだ午前中なのにもかかわらず、これもまたベージュ色のカーテンを通して射し込む外からの光の加減で、部屋の中は夕方のような、非現実的な薄暗がりに包まれていた。

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