「パリに暮らして」 第3話
私の様子を見ていた柊二さんは、やおら立ち上がった。そして、浴室のほうへ行くと、栓をひねってバスタブにお湯を張り始めた。
「眠り込まないうちに、シャワーを浴びるといい。今夜は冷えるから、お湯に浸かって暖まるといいよ」
まだ歩けなくなるほど酔っていたわけではなかった私は、ありがとう、と言って立ち上がり、浴室に行った。ゆっくりと服を脱いでいると、向こうの居間のほうで、柊二さんがグラスやお皿を片づけている音が聞こえてきた。
私は何日かぶりに、ゆっくりと時間を気にせずシャワーを浴びた。シャワーブースのなかで気が済むまで体を洗い、そのあと、浴槽になみなみと溜まった熱いお湯に、肩まで浸かった。
目を閉じて、ワインの酔いのままに気を失ったようになっていると、しばらくして浴室のドアが静かに開いた。バスローブを持った柊二さんが入ってきた。
驚いて慌てている私を見ないようにして、さっと目を逸らすと、私の荷物の上にバスローブを置いて、視線を背けたまま柊二さんは話し始めた。
「さっき、愛した人に会いに行くと言ってたね?」
「ええ」
「彼の存在を記憶から消し去りたいって」
「そうよ」
「多分、それは無理だ」
「そんなことないわ」
「君が何をしようとしているのかわからないけど、……もしかして、物騒なことを考えてるんじゃないんだろうね? ……いいかい、よく聞いて。たとえ君が何らかの行動に出たとしても、関係が終わってるんだったら、そんなことをしても何にもならないよ」
慎重な口調で柊二さんは言った。
「わかってる。当然そうよね。わかってるけど……。実際、何をしようとか、まだ決めてるわけじゃないの。本当にできるのかどうかも、わからない……。……でも、前に進むためには、何かやらないと。どうにかしないと、私、いつまででもこうやって燻り続けてるわ」
私は目を閉じて、自分自身に言い聞かせるように言った。
「いいかい、」
柊二さんは、バスタブの前まで来てしゃがみ込んだ。私は反射的に体を縮めて、隠れるようにバスタブの内側に張りついた。柊二さんはそんなことには構わずに、私の目を真っ直ぐに見つめた。そして、こんなことを言った。
「……それは、例えて言うなら汚れたガラスの瓶を洗ってるようなものだよ。……最初は、普通に、順調に、汚れは落ちていく。スポンジで、洗剤を使ってこすってるんだからね、その黒っぽいコケのような汚れは、どんどん落ちていくよ。……だけどその内に、どうしても取れない汚れがあることに気づくんだ。洗剤でこすっても、こすっても、なぜか全然減っていかないんだ。そうか、これは瓶の内側についてる汚れに違いない、って思って、使い古しの歯ブラシなんか突っ込んで、中からこすってみる。……少しは落ちたかな、って思えるけども、でもやっぱり全然綺麗になってやしないんだ。しばらく頑張ってみる。厚みのあるガラス瓶の、どっち側についてるんだかわからない汚れを、矯め眇めつしながら、表から裏から、全部こすってみる。――そうやって、終に気づくんだ。ガラス瓶の底のところは最初っから割れていて、そのヒビの部分に汚れが入り込んでしまっているから、それは決して落ちないんだって。割れたガラス瓶なんて、何の役に立つんだい? 水を入れても漏れてしまって、使いものになりゃしない。……そうだな、せめて観賞用に使うことができるかな、それが綺麗なガラス瓶だったならね……」
「――私は、綺麗なガラス瓶になれるかしら?」
私は、急に興味を惹かれたようなふりをして、身を乗り出した。酔っていたからだろうか、なぜか急にふざけたくなった。……それとも、そうやって話を逸らしてごまかそうとしていたのかもしれない。
でも彼の目を覗き込んでいると、なぜか素直な気持ちになることができた。彼は大人で、私も本当はいい大人だった。そのことは少し私を安心させた。彼はこんな突拍子もないことを言い出した私を見下したり否定したりしようとせずに、対等に扱ってくれているような気がしたからだ。
案の定、彼は応えてくれた。熟達者としての余裕すら見せながら、彼はこう言ったのだった。
「もし君の中に、修復しようのない汚れた傷があるのならね」
「……せめて観賞用でも?」
私は言った。柊二さんはそこで初めて私の肌の上に視線を動かした。
「上等だよ」
彼は答えた。
――意識がすとんと落ちて、いきなり底のほうを這いつくばい始めた眠りは、とても曖昧で不安定な、断片的な夢の中をさまよった。ひどく遠いところにある街……、レンガでできた壁や石畳の道が延々と続いて、ようやくたどり着いた。そこは、一度も訪ねたことのない場所だったにもかかわらず、なぜか懐かしかった。まるでそこに、長いあいだ住んでいたみたいに……。
そして、そこに私たちはいた。小さいけれど、設備の整った、清潔なアパートに暮らしていた。
私たちは、手を繋いで歩道の上を歩いている。彼は出かけるとき、必ず私の手を握った。まるで、そうすることが義務か、最低限の愛情表現だと思っているかのように。それとも、いつまでという保証はないがともかく今は私が彼の恋人だと確認させてくれる、頼りない約束のように。
彼の手は大きくて、妙にフカフカしていた。まるで質の悪いスポンジみたいだ、と、私はいつも思っていた。
――意味を結ばないイメージが、次々に現れては消えていった。彼の顔は見えなかった。ただ、もっと遠くの街、私が憧れを抱いていた青と白で統一された街のイメージが現れた。
一緒に行こうと言っていたのに。
ああ、俺たちは行けるよ、と彼は言っていたのに。
白く丸い屋根。高く聳えた椰子の木。
――高い窓から射し込む光がとても眩しい。昨夜飲み過ぎたワインの酔いが頭の芯に残っていて、目から入ってくる健全な朝の日差しが鋭い頭痛を引き起こした。
重だるい体をゆっくり動かすと、目眩がした。夕べの記憶が甦ってくる。あれからバスローブを羽織って柊二さんに寄りかかりながらほうほうの体で客用寝室に移ったのだった。ワインの酔いに溺れ、湯船でのぼせきった私の体をローブでくるむようにして、彼は黙ったままベッドに入れてくれた。夕べは本当に飲み過ぎた。しかも、何から何まで柊二さんにお世話になってしまった。ごろんと寝返りと打つと、ぐるぐる回る頭のなかに自己嫌悪が押し寄せてきた。
ガチャ、と、アパルトマンの玄関が開く音がした。次いで、鍵をキーフックに納める軽い音が聞こえて、パタンとドアが閉まった。とても慎ましやかな音だった。
紙袋のガサガサという音で、人が台所のほうへ入ってゆくのがわかった。床が軋む音が少ししていたが、足音という足音は一切聞こえてこなかった。
柊二さんが帰って来た、と、目を閉じたまま私は思った。
まだ頭痛は続いていて、目眩は尋常でなくひどかったが、取りも直さず起き上がって下着をつけた。ジーンズを履き、やけに投げやりな仕草でセーターを被った時、自分がパリジェンヌを気取っているみたいに思えて何だか可笑しくなった。ブーツを履き込むのは窮屈に感じられたので、ベッドの脇にあったバブーシュを拝借した。元の奥さんのものなのだろうか、その革製の、先端の尖った明るい水色のスリッパは、使い込まれてだいぶくたっとして見えるけれど、繊細な刺繍が施されていて、とても可愛らしかった。
……結婚していた時、夫婦二人でモロッコにでも旅行に行って、お土産に買って帰ったのだろうなあ……。想像が膨らんだ。モロッコの、北アフリカの、青い海と蒼い空とが目に浮かんだ。それはさっき夢に現れたあの街の風景と重なって、刹那のあいだ、目眩がひどくなった。
頭の中に、澱のように居座りそうになるそのイメージを振り払うかのように、私は目をしばたたき、額を叩いて立ち上がった。
どんな夢のような思い出があろうとも、駄目になるものは駄目になる。事実、このバブーシュも、いらぬもののように、無造作に、ベッドの脇に放られていたのだ。
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