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【ホラー短編小説】 淵 2

 子どものはじめは知らなかったが、そこは浦一体に水を供給する貯水池だった。ピンと糸を張ったように静かな水面が広がり、周囲に繁る鬱蒼とした木々が大きく張り出して影を落としている。その場所は浦の人々によって、昔から〝ふち〟と呼ばれていた。
 正面からざわざわと枝葉を揺らしながら吹きつけてくる風を浴びているうちに、一はなぜか嬉しくなってきた。いままで山の木々と下生えに挟まれた熱気のなかをずっと歩いていたせいか、その開けた場所の空気は、妙に清々すがすがしくもあった。
 ここは確か小学校の「校区外」で、本当は来てはいけない場所のはずだった。そのことが、反対に一を喜ばせた。ひとりで禁止された場所に来ていることの背徳的な興奮が、あとから湧き上がってきた。
 向こう岸の山から吹き渡ってくるそよ風を浴びながら、水際に沿って少し歩いてみた。〝淵〟はどこまでも静まり返っていて、自分以外には生き物の気配がなかった。鳥さえ飛んでいない。
 未知の空気を肺いっぱいに吸い込みながら、さらに歩を進めると、地形は少し盛り上がってきた。緩やかな坂になった地面を、転ばないように用心しながら上っていくと、低い崖のような場所に出た。
 そのとき突然、強烈な腐臭が鼻を突いた。風向きのせいか、崖に遮られていたためか、それまでまったく気づかなかったのだが、いま鼻腔に飛び込んできた臭いは、明らかに死んだ生き物の発するあの臭いだった。昨年、一は家の近くの砂浜で息絶えているたぬきの死骸を見つけたことがあった。とびが運ぼうとして落としたものかもしれなかったが、狸は固く硬直したその身を砂の上に横たえたまま、命の光の消えた目をただ虚空に向けていた。
 そのとき狸から発せられていた臭いを、いまでも一は克明に覚えている。そしていま嗅いでいる臭いは、それにそっくりだった。
 崖から真下をのぞき込んだ一は、淵の水面に、奇妙なものが浮かんでいるのを認めた。
 最初、それはただの布の切れ端のように見えたが、しゃがんで少し身を乗り出してみたところ、その布の隙間から、人間の皮膚のようなものが見えた。
 一はたったひとりだった。いま目に見えているものが何であるか、感想を言う相手も、確認を求めることができる相手もいなかった。
 それで、ただじっとうずくまってその対象物を見つめ続けるしかなかったわけだが、不思議なことに、そうしてみると、自分がいま目にしている非常に非現実的で突飛なものを、妙に冷静に受け止めることができた。

 死体だ。

 一は口には出さず、心のなかで思った。服の柄からして、そう年を取っていない、女のようだった。それは淵に時折起こるゆらぎのようなかすかな水流に乗って、崖の下に打ち寄せられている。実際、風が吹くたびに一の位置から見えている衣服はさざ波に洗われて細かく揺れていた。
 そのとき、まったく衝動的に、一は女の顔を見たいと思った。それは一の無意識のレベルから突然飛び出してきた抑えようのない欲求で、おそらくは幼くして母親を亡くした子ゆえの切羽詰まった感情から来たものだったかもしれなかった。
 ともかく、一は崖以外の位置から死体を見られそうな場所を探して、目視と左右に駆けずり回ることによって、何とかその最善の角度を見つけ出した。
 それは、いま上ってきた崖を少しあと戻ったところで、いま水流の気まぐれによって死体が流れてくる方向にも合致していた。さらに一はいったん林のなかに入って適当な太さと長さの枝を拾ってきた。その枝を使って、衣服に引っかけ、死体を見えやすいところまで引っ張り寄せることまでしたのである。
 死体は、無残な状態だった。
 水死体にありがちな、体内にガスが溜まってパンパンになったものではまだなかったが、夏の高温多湿の環境のもと、午後の強烈な太陽にあぶられて、明らかに急激な腐敗の兆候を見せていた。花柄模様のワンピースとセミロングの黒髪が、その死とは対照的に生々しく映る。
 あんまり古い死体ではないらしい。
 子どもながらに、至極冷静に一は考えた。その死体がどこから来たものか、どういった経緯を経てこの淵に浮かんでいるのか、まったく想像もつかなかったが、それが間違いなく生きている人間ではないということ、そしてその死はごく直近に起きたことだということはわかった。
 そして、その死体には、一の視線を引きつけて離さないものがあった。それは死体の顔であった。
 女は予想していた通り、それほど年をとってはいなかった。けれど若いというほどでもなかった。もう少しふくれかけていたからか、浮腫むくんで実年齢よりも若く見えているのかもしれなかった。
 けれど、そんなことはどうでもよかった。女の目が、恐ろしい形相で開いていたからである。
 それはこの女を、生きているときにどんな人間であったかを表わすものではなかった。もし生きていれば、心が優しいとか、意地悪であるとかずるい性格であるとか、その眼差まなざしの種類から判断もできようものだが、死んでしまっているがため、そこから人間の〝意思〟のようなもの、視線が合ったときに双方向性に通じ合う、その人となりの判断材料となるようなものは、一切削られてしまっていたのだった。
 女はいつまでも、両の目を大きく見開いたまま、まばたきもせず仰向けに浮いていた。そのいつまで待っても変わらない目の静止状態が、この女が生きた人間ではないという事実をますます一に理解させた。
 だが、この〝生命を失った〟人間というものを生まれて初めての当たりにした一は、通常大人ならギャッと叫んで一目散に逃げていくだろうこの状況で、さしたる勇気も必要とせずに踏み留まっていた。一は母親が死んだとき、結局その死体を一度も見なかった。全身火傷という痛々しい姿で亡くなったことで、本当に近い身内にしかその顔を拝んでお別れをさせなかったというのもあるが、まだ二歳になったばかりの幼子に、醜く変わり果てた母の様態を見せることはあまりにも残酷に思われて、大人たちは葬式のあいだじゅう一を母の亡骸なきがらから遠ざけていたのだった。
 だからその反動で、一は今日この死体を見ることに、ある意味執着したのかもしれなかった。九歳になった子どもは、淵のほとりにたたずんだまま、女の死体が水面をゆっくりとたゆとうのをいつまでも見つめ続けていた。

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