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【長編小説】 パリに暮らして 4

 ――ワインの酔いは、甘い記憶をあふれさせて、こごえて固まりきった心をいっときのあいだ、なごませてくれる。
 私は自室となった柊二さんのアパルトマンの客用寝室で、昼間から白ワインを飲んでいた。柊二さんは仕事に出かけていて、アパルトマンには私だけだった。

 いつものように、ひとりになったときは、繰り返し、ひとつのことを考えていた。……考え続けることをめられない私の暗い計画は、思いつきの範囲を越えて、ゆっくりと、具体的なものになり始めていた。そして、何度も反芻はんすうするうちに、ますます現実味を帯びて、実行可能なものになっていくように思われた。グラスが空になると、すぐに心ここにあらずといった空疎くうそな手で、瓶からワインが注がれた。
 私はグラスを重ねながら、ただただそれが成功したときのさまを思い浮かべて、陰湿な喜びに浸っていくのだった。

 安物のワインをボトル半分ぐらい空けたころだろうか。あらががたいほど強い酔いが押し寄せてきた。はあっ、と熱い息を吐いてグラスを置くと、私はベッドの背もたれに立てかけた大きな枕に身を任せた。誰に遠慮することもない、ひとりだけの時間のこの酔いは、私を限りない開放感へといざなう。そして、良かったことも、悪かったことも、すべての思い出を含む、また遙かに遠い街での出来事に、心は漂っていくのだった。


 ――そのとき私はカナダのモントリオールにいて、三十代の最後の歳を迎えようとしていた。そして、短い期間を中央の繁華街にある安ホテルで過ごしていた。

「出身はどこなの?」
 その晩出立する予定だった私は、何気なく聞いたのだった。たまたまそのとき受付に座っていた従業員に、チェックアウトの手続きをしてもらっている最中だった。細面の、暗い大きな眼をした背の高い二十代後半ぐらいの男だった。
「――イントゥニーシア」
 彼は答えた。……私には、正直彼が何と言ったのか、わからなかった。その日までに何度か交わした会話で、明らかに英語圏の人間ではないということだけはわかっていたので、発音の問題なのだろう、と考えた。――インドネシア? そうは見えないけど。――心の中で、そうつぶやいただけだった。
 いずれにせよ、もうこのホテルを出るのだし、この先会うこともないだろう。そう思った私は、軽い気持ちで「あなたの写真を撮ってもいいかな?」と聞いたのだった。
 ――少しの〝間〟があって、溜息交じりに彼はこう言った。
「君たち日本人は、どうしてそういつも写真を撮りたがるんだ? こないだも、日本人のグループが『写真撮らせて下さい』って言ってきた」
「さあ。あなたがイケメンだからじゃない?」
 私は言った。彼の目はみどり色で、確かに綺麗な顔立ちをしていた。
 半分はリップサービスのつもりだったが、彼は驚くほどあからさまに嬉しそうな顔になって、
「君はなぜ撮るの」
 と聞いた。私は、率直に答えた。
「まあ……家族へのお土産みたいな、まあ思い出のためかな。このホテルの受付の人は、こんな感じだったよ、って……」
 そのとき彼は、初めてはっきりとした笑顔を見せた。そしてすっくと立ち上がると、両手をズボンのポケットに入れ、少し胸を張るようにしながらこう言った。
「普段は断ってるんだけど、OK。君だったら、いいよ」
 ――ナルシストだな。
 そう思いながら、私は上機嫌でポーズを取る彼を、写真に収めた。
 ――いま撮った写真、送ってくれる? と彼が言うので、オーケー、と私は言い、互いにメールアドレスを交換した。
 それが、私たちが親しくなった最初のきっかけだった。

 ――ピエール・エリオット・トリュドー空港(かつてはドルヴァル空港という、旅情たっぷりの名前で呼ばれていた)の待ち合いで、ノートパソコンを開いて彼に写真を送った。
 私の乗るはずだった飛行機は天候を理由に五時間も遅延しており、その間、待ち時間をもてあました私は、ラウンジに座り込むと、ノートパソコンを開いてインターネットを見始めたのだった。その途中で、彼に写真を送ると約束したことを思い出し、早速教えてもらったアドレスに送信した。
 すると、すぐに嬉しそうな返信があり、彼がメッセンジャーでリクエストを送ってきたので、了承した。
 それから私たちは、チャットを通じて色々な話をし始めたのだった。
 ――彼が〝チュニジア〟人だということを知ったのも、メッセンジャーでテキストの返信を得られたおかげだった。彼の風変わりな発音だけでは、私はそれを永遠に知ることはなかっただろう。
 ともあれ、こういった経緯で、彼とは日本に帰ったあとも交流を続けることになった。驚いたのは、彼がかなりシリアスで厳しい性格の持ち主だと知ったことだった。会話の中で、彼はそれまでに知っていた男性たちのように、優しいとか甘いといったことが微塵みじんもなかった。
 ――そんな男に、なぜそこまでのめり込んでしまったのだろう。私はいつも自問する。そしていつも明確な答えは出ない。……ただ、きっかけとなった出来事はあったように思う。
 ――ある日、私が送ったメッセージを最後に、いきなり彼と連絡が取れなくなった。それまでは、少しの遅れはあっても、必ず返信は来ていたというのに……。どうして? 何か、気にさわることでも言ってしまったのだろうか? 
 もしかするとこの時点で、私は彼に心を奪われてしまっていたのかもしれない。こちらは気にかけているのに、向こうはわれかんせずといったように、一方的に連絡を絶ってしまっている……。私は不意に地面に空いた穴に落ちてしまったような、不安な気持ちになった。連絡は途絶えたまま、一週間、二週間が過ぎた。
 ――思えば、そのあいだに、私はちょっと病んだ・・・のかもしれない。あの空白の二週間がなければ、そこまで彼に深入りすることはなかったのではないかと思う。
 そしてとうとう、彼がメッセージをよこす日がやってきた。彼は悪びれもせず、〝旅行に出ていた〟と言った。どこに? 誰と? と問いかける私に、曖昧な返事しかくれなかった。〝チャットができないくらい、遠いところ〟と彼は言い、〝友だちと〟とだけ答えた。
 わからない……。どうして、何も言わず、二週間も連絡がつかないで、帰って来たと思ったら、そんな煙に巻くような話をするの?

 言葉数の少ない人間は、良きにつけ悪しきにつけ想像力を掻き立てる。ゆえに、相手は否応なしに自分の心をくだいて勝手な想像の構築物を組み上げてしまうことになる。……彼が充分な情報を与えないがために、私は、言わば〝ロマンチックなスリル〟とでも言うべき相反する二つの刺激物を詰め込んだ箱物・・を自分で作り出し、自らその只中ただなかに入りこんでしまったのだ。

 彼の思わせぶりな沈黙は、火に油を注ぐように私の気持ちをあおり、性急な行動へと駆り立てることになった。その想像の構築物のおかげで、私は再び彼のいるあの街へ、文字どおり、飛びさえしたのだった。
 私はまだ若かった。――少なくとも、まだ、大きな荷物を抱えて地球を半周回る異国の街へ、愛する人に会いにいく、それだけのために動ける情熱を持っていた。

 ――けれど――、それが報われたかというのは、別の問題だ。着いてすぐ、彼が私に望んだのは、私のお金でマリファナを買うことだった。
 さらに私は彼の友人を通じて、あの二週間連絡が取れなかったあいだ、彼が実は警察に逮捕され拘置所に入れられていたという事実を知ることになった。ある日警察に職務質問されて、クスリだかマリファナだかの所持を疑われ、そのときに彼はかなりアグレッシブ・・・・・・に抵抗したらしい。……具体的にどんな風に抵抗したのかはわからないが、逮捕されるほどのものだから、推して知るべしといったところだった。また、警察は、彼が薬を売っているのではないかと疑ってもいたそうだ。さすがにそれはなかった、とその友人は言っていたけれど、どちらだろうと興味はなかった。
 「私たちはもう終わっている。神様があなたを私の近くに置かなかったことに、感謝するわ。さようなら。どうぞよい人生を!」
 帰国後、私はこんなメッセージを彼に送りつけた。彼は激しい怒りの返信をしてきたが、地理的に遠く離れてしまったあとは、その言葉に私を恐れさせる効力はなかった。
 その後、彼から二度と連絡はなかった。向こうも、本当に〝終わり〟を意識したのだろうと思った。
 出会った日から、三年の月日が経っていた……。フェイスブックだけで繋がっていた私たちの縁は、やがてお互いがフォローを止めることで、完全に切れた。私は悲しくて、悔しくて、ひどく虚しかった。

 ……そして、いつからだろう。自分の心が均衡を欠いていると自覚するようになったのは。私は海底を這うヘドロか、それとも濃い霧のようなものの中を延々とさまよっているような日々を過ごした。もう、飛行機に乗って誰かに会いに行くなどといった行動を取る元気も勇気も、枯れ果ててしまったような気がした。
 そうしているうちに、いつしか、……ある暗いアイデアが、私の中に芽生えた。それは、行き場のない怒りと哀しみとが混ぜこぜになって漂ううちに、あるどこかの地点で小さな核を結び、発生したもののように思われた。それはさらに、膨大な量の思考の潮流に乗って流れていき、気の遠くなるほどの時間をかけて、どこかの岸辺に辿り着いた。

 ――やってやろう。

 極めて危険な旅になる可能性があった。けれど、こうして生きていても、あの強烈な思い出とその後の悔しさと哀しさのあいだで抜き差しならぬ状態におちいってしまった私には、ほかに選択肢はなかったのだ。こういった行動に出るしか、そのときの私には道はなかった。
 どんな方法でもいい。何らかの形で、あの男に打撃・・を与えてやろう。暗い、ドロドロした計画が、無数に組み上げられた。私は、考えつく限りのありとあらゆる方法で、彼を懲らしめる想像をした。決して、絶対に、許さない……。それは、彼の命を奪うこともいとわない、例え〝刺し違えても〟決行すべき恐ろしい考えも含んでいた。

 「愛した人を、殺したいと思うほど憎んだことがある?」

 ――柊二さんに問いかけた自分の言葉を、思い出していた。この危険な動機がどこから来ているのか、分析しようと試みてみる。
 私はいつでも自分で自分の責任を取ろうとした。例えそれが、不可能でしかないという場合であっても……。〝責任を取る〟といっても、それは多分、彼に対するものが半分で、あとの半分は、自分に対するものだ。

 愛を成就じょうじゅさせることができなかった私たち。お互いに、愛について深く考えもせず、続けていこうとする努力もおこたった。私たちは根っこのところで似ていたのかもしれない。常に後ろ向きで、我を通し、相手を思いやるということを知らなかった。前向きでさえあれば、もしかしたら二人で幸せになれたのかもしれなかった。上手く成し遂げられなかった罪を、二人ともあがなわなければならないのだ。
 ここまで思い詰めるといったことが、常軌を逸しているということは百も承知だ。誰も理解してくれる人はいないかもしれない。でもそれでいい。
 どこにも行き場のない感情を放出するために、私にとってそれはどうしても必要なことだったのだ。

 ――その瞬間は、私たちの関係の、完全なる破綻はたんとなるだろう。そしてそれは、すべてを諦めた私にとって、最後に彼にひと目会える甘美なチャンスでもあった。


 ――ワインは再びグラスに注がれ、行き止まりの路地を右往左往する野良犬のように、グラスの底でぐるぐると回った。憂鬱な杯は、終わることを知らずに重ねられていった。

 ――こんなこと、誰に話せるっていうのよ――

 私はその午後、ワインボトルを空にした。

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