【長編小説】 初夏の追想 28
――守弥はパリで絵を描くうち、あるフランス人の画家から言われたそうである。
「君の絵は、クスノキ画伯の作品を彷彿とさせる」
と。有名な西洋画家であった祖父は、フランスでもよく知られていた。
ひとりだけではなかった。親しくなった日本人留学生の中にも同じことを言う者があったし、パリの画廊の目利きの画商や美術評論家からも何度となくそのようなことを言われるようになった。
守弥は、私に見てもらいたいものがあると言った。私たちは画廊の喫茶室を出て、ギャラリーのほうへ移動した。
するとそこには篠田がいた。そこは篠田と犬塚夫人が立ち上げた画廊だったのだ。
「こちらへ」
神妙な顔で、篠田は言った。私たちは、奥の展示室へ案内された。
そこには、私の祖父の作品を展示してあった。ここは特別室で、常連客だけしか入れないようになっているという。
私たちは、ひとつひとつ、祖父の描いた絵を眺めて回った。細長いそのギャラリーは、作品ごとにじっくりと見られるようぐるりと回廊を巡らし、横に移動しつつ一枚の絵を眺めていくような造りになっていた。ゆっくり進みながら見ていくと、そこには田舎の風景や、都市のビル群を描いたもの、数枚の静物画や人物画などが展開していった。
ずいぶん進んだとき、ある一枚の絵の前で、私は射すくめられたように足を止めた。
「先生の遺作になりました」
篠田はしみじみとした声で言った。キャンバスの裏側には、亡くなる前日の日付が書かれていたという。
そこには、あの犬塚母子の肖像画があった。祖父は絵を完成させていたのだった。そしてその翌日、この世を去った。
私は吸い込まれるように、絵に見入った。画布の上の母子は、まったく瓜二つの容貌をして、正面からこちらを見つめていた。そこにはまるで生きて呼吸しているような犬塚夫人が存在していたし、母親の姿をいくらか縮小しただけのような、守弥の姿があった。絵の中の二人は見とれるほどに美しく、何か強い意志を秘めて、画家のほうに視線を送っていた。
……そのとき私はふと、絵の右下の隅に施された祖父のサインの下に、何か書かれてあるのに気がついた。顔を近づけてよく見なければわからないほどの小さな文字だったが、それを読んだとき、私はあっと声を上げた。
そこにはフランス語とカタカナで、 〝Notre Art ワタシタチノゲイジュツ〟 と書いてあった。
――その瞬間、絵の中の二人をじっと見つめ返す画家の姿が見えたような気がした。
私は溜息をついた。この絵は犬塚夫人へのオマージュだ。
そして、私は祖父の絵の色使いやタッチにごく親しみのある見覚えがあることに思い至った。
そうだ。ついさっき、展覧会で私はこのような絵を見たばかりだ。
それは守弥の絵だった。人肌を描くときに故意に暗い色を混ぜ込むその手法もそっくりだった。そのときに受けた印象と、いま目の前にある絵が与える印象は、フランスでほかの多くの人々が感じたように、不思議なくらい、似通っていた。
私は、篠田と守弥を振り返った。
二人はじっと私を見つめ、無言でうなづいた。篠田は悼むような微笑みを浮かべていた。
「それで僕は、……もしかしたらと思って……」
守弥は目を伏せた。〝真実〟を、確かめてみたいという気持ちが芽生えた。だがそれを実行に移す決心がつくまでには、長い年月を要した。知るべきか、知らないでいるべきか。……〝真実〟なんてなかったのかもしれない。気にしないでこれから生きていくこともできるのかもかもしれない……。
逡巡した挙句、ついに守弥は決心した。個展のために日本に戻るのを機に、DNA検査機関の書類を揃え、篠田に託したというわけである。
「僕は来週にはまたパリへ戻らなければなりません」
守弥は言った。
「結果が出るまでは数ヶ月かかるそうです。結果の書類は僕と楠さん両方に送ってくれるよう頼んであります」
私は待った。
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