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【縣青那の本棚】 海流のなかの島々 アーネスト・ヘミングウェイ 沼澤洽治 訳


 ー上巻ー

 世界を股にかけて人生を謳歌おうかしてきた男、トマス・ハドソン。画家としての名声は確立されているが、今は世俗を離れ、メキシコ湾流の中に浮かぶ島に腰を落ち着けて、自分の仕事に没頭している。

 そのハドソンを、3人の息子たちが夏休みを過ごすために訪れて来る。長男の通称〝若トム〟はハドソンの最初の妻の子供、他の2人、デイヴィッドとアンドルーは2人目の妻の息子たちだ。

 作家で友人のロジャーを加えて、男達の夏休みはのんびりと過ぎていく……。

 主な登場人物は全て男性で構成されているというのがすごい。そして、彼らの生活ぶりも、今現在私がいる場所から言うと、ひどく遠い世界の出来事のようにかけ離れていて、またすごい。

 ハドソンはクルーザーを所有し、島の生活を快適にするために、使用人として地元の黒人を雇っている。使い走りみたいな役割の少年と、家の細々した用事をするジョゼフ、そして料理番であり小間使いであるエディー。N.Y.から船便で届くくしゃくしゃになった新聞にアイロンをかけたり、ハドソンのためにこまめに飲み物をつくること(もちろんアルコールである。ハドソンはジン・トニックにアンゴスツラ・ビターズというトリニダード原産のキニーネの味がするドロップを入れるのがお気に入りらしい)からクルーザーの管理まで、彼は一人で見事にこなす。一家に最も近い存在でもある。

 このエディーは3人の息子たちを小さい頃からよく知っていて、ベッドの支度をしたり、食事の世話をしたり、時には叱りつけることもあるようである。主と召使という間柄ではあるが、3人の息子たちはこのエディーを父親のように慕っているし、エディーも3人の面倒を見たり、我が子のように心配したりする。ハドソン一家と土地の黒人との関係の中で、面白いと思ったのは、彼らと黒人たちが、親友であるかのように同等の物言いをすることだ。そこには雇使間の窮屈な上下関係といったものはまるで無く、むしろ朋友ででもあるかのような親密さが漂っている。

 しかしそれもありながら、更に興味深く思ったのは、エディーら使用人とハドソンたちの実生活の境界線がくっきりハッキリと引かれているということ。

 これは別に規則や何やらで厳密に取り決められている、などというわけではないのだが、彼らの感覚、取り分けエディーの言動や心持ちといったものの中に如実に表れていると思った。

 たとえばある日、島に連絡船で上等のステーキ肉が届いた。エディーはそれを自分が食べたいという気持ちすら起こさないらしく、ごく当たり前のようにハドソンにそのことを告げ、それをどのように調理するかといったことや、付け合わせのポテトサラダの味付けや、子供たちのためにデザートはパイにバニラアイスを添えるなどといったことを嬉しそうに話す。

 彼はまたチャツネについて話すとき、彼がその果物とスパイスの煮たものを気に入っていることを話し、これまた当たり前のように、「とうもろこしの粥に混ぜて時々食べる」と言う。そしてそういうのを、ハドソンも息子たちもごく普通のことと受け止めているらしい。

 富めるアメリカ人と貧しいカリブの島民の人生的ギャップが淡々と描かれ、誰もがそれを当たり前のことと感じている風なのが、現実を突きつけられるようで驚きを感じる。

 ともあれエディー自身が、割り切っているのか、そういうものだと思って疑問を挟んだことが無いのか、それとも生まれつきものごとを深く考えない性質たちなのかよくはわからないが、とにかく生き生きと幸せそうにハドソン一家のために立ち働いている様子に少しは救われる。少なくとも彼は精神的に独立した存在で、ハドソン一家に友達のような口をきいたり、海や釣りのことなどに関してはハドソン一家が彼を仰ぎ見るような場面さえあるのだから。

 3人の息子に夏の休暇を思い切り楽しませてやろうと思うハドソン。彼は普段息子たちと一緒に暮らすことが出来ないために、せめて一緒にいる間は自分に出来る限りの父親らしいことをしてやろうと思う。

 しかし彼が息子たちにしてあげることというのは十分過ぎるぐらいゴージャスである。島に到着してから毎日、息子たちは家の前の海で泳ぎ、磯の方に出てめいめい手作りのもりで魚突きをする。メキシコ湾流の流れ込む透き通った美しい海に、戯れる魚たち。そんな海で泳ぎ、夏の陽射しをいっぱいに浴びて夜は張り出しのポーチに置いた簡易ベッドの上で(つまり外だ)眠る。男の子3人にとって、これ以上楽しい夏のアクティビティがあるだろうか? 

 もちろん男達の物語だ。危険な場面もある。たとえば次男のデイヴィッドが魚突きに夢中になるあまり、磯の沖に出過ぎてしまってサメと対面するところ。この時は艇の上からのエディーのマシンガン乱射で間一髪救われ、ハチの巣にされた鮫は海の底に沈んでいくのだが、そんな世界もまたすごい。その時の敵は残忍なホオジロザメではなく左右の目が横に飛び出た形をしているシュモクザメだったが、シュモクといえどもすこぶる大きなシロモノだったらしく、そんなのに襲われたらきっとデイヴィッドはひとたまりもなかっただろう。

 男達はまた、クルーザーで沖に出、釣りを楽しむ。釣りと言っても私達がまず頭に浮かべる磯釣りとか川釣りといったのんびりしたものではなく、狙いはカジキマグロの一本釣りだ。

 よくアメリカ人が巨大なカジキマグロの釣り上げたのを桟橋に吊るしてその横に立っている写真を見ることがあるが、まさにその世界である。それをこの人達は、レジャーとして当然のようにやっているのだ。

 次男のデイヴィッドがバケモノみたいな〝めかじき〟を引っ掛け、6時間に渡ってそれと格闘するシーンは圧巻である。この時は釣りの名手であるハドソンの親友ロジャーがデイヴィッドの横について面倒を見る。ハドソンはデッキの上の操縦席で、船の位置を調整する。

 思えば鮫の時といい、釣りの場面といい、このハドソンは息子の一大事にはいつも友人(信頼できる人物とはいえ)に任せて、自分は後方に退いているきらいがある。ヘミングウェイの遺作であり、彼の本当の心情が吐露されていると言われている本作には、こんな風に実の息子に対してつい遠慮というか尻込みしてしまう著者のホンネが表わされているのかもしれないなあ、と思う(深読みし過ぎだろうか?)。

 しかしこのシーンは、上巻の中で最もページ数を割かれ、緻密に描かれているシーンで、一番のクライマックスとも言えるだろう。ロジャーの抑制された補佐も見事ながら、最後の土壇場で見せるエディーの根性もまた迫力だ。

 上巻では、このしばらく後に意外な展開が待っている。その展開を目の当たりにすると、今まで読んできた男達の冒険描写が真に迫って目の裏に描き出され、感慨深く押し寄せてくる。

 上巻にはその後も少々の展開があるが、この大きな展開の後では大した盛り上がりを見せない。ハドソンはまた独りになり、キューバへと居を移して自らの思い出の日々に沈降していく。

 その中での猫との関係描写がいい。彼と猫とは長年むつまじい関係にあったようで、家で飼われていた沢山の猫たちのそれぞれの個性、多分全て本当のことではないかと思うぐらいリアルに書かれているそれらの性格が面白い。

 ちなみに、晩年のヘミングウェイも多くの猫と供に暮らし、両者の関係はかなり密接であったという。更にヘミングウェイの猫達の多くは〝6本指〟という遺伝的な特徴を持っていて、現在でもその子孫達が博物館となっているフロリダ州キーウエストのヘミングウェイハウスに幸せに暮らしており、訪れる客をゆったりともてなしてくれるそうだ。


 ー下巻ー

 上巻の巻末から始まっている『キューバ』の続きで始まるこの下巻では、ヘミングウェイ自身を投影しているようなトマス・ハドソンの生活が細かく描写されていく。彼は今や独りとなり、ハバナ郊外の丘の上にある持ち家〝農場(フィンカ)〟にいる。いつ始まったのか定かではないが、どうやら海の上で船を駆る仕事に従事しているらしい。

 大佐に会いに行くというくだりで、それが軍事関係のことであるらしいというのが中途でわかってる。ハドソンは十数日に渡る航行を終え、家に戻ったばかり。海の上で何をしていたのかはつまびらかにされていないが、彼が何かに追い立てられるかのように自分の体を酷使しているのは明らかである。ある時は18~9時間ぶっ通しでかじを取ることもある、と、家の猫に向かって彼は言う。彼の家には猫が4、5匹、犬が4匹いる。その中でもボイシーと呼ばれる猫が彼と一番距離が近く、お互いに「愛し合っている」といってはばからない。この人間と猫との愛情模様は、非常にユーモラスであり、見ていて微笑ましい気持ちにさえなってくる。
(ちなみにボイシーはヘミングウェイが溺愛した実在の猫)

 上巻『ビミニ』の中で見られた良き父親、仕事熱心な画家ハドソンは、下巻においてはすっかりなりをひそめてしまっている。それどころかむしろ、ゲスな〝嫌な奴〟に成り下がってしまっていると言ってもよい。ビミニで3人の息子達を海に連れ出し、魚突きをさせて砂に寝そべったり一緒に食事をしたり、時には息子達の寝ているポーチに出したベッドの横で、自分の父親としての真価を自分自身に問いただしたりして、自分の人生を真摯に振り返ったりすることもあった男が、この『キューバ』の冒頭では常に不機嫌で、横柄で無頓着で下品な、何かに凝り固まったような無頼漢に変貌してしまっている。

 まあ、これには勿論、それだけの大きな理由があるのだが。

 無頼漢とはいっても裕福なアメリカ人、キューバでも勿論たくさんの使用人を雇っている。1人のボーイを除いてほとんど全ての使用人を、彼は嫌っている。運転手のことはいつも大嫌いだ。それはこの運転手が車のエンジンの掃除をろくにしないからというだけではなく、彼が裕福なアメリカ人に対してへつらいの言葉を発するどころか基本的にハドソンのような暮らしをしている者に対してあからさまなねたみ、、、を抱いているらしいことからのようだ。現にこの運転手は、何度も口に出してこのようなことを繰り返す。「私らキューバ人が、この戦争によってどんなに辛い生活をしているか、旦那さん方にゃとても想像つきますまい」 この運転手は、富めるアメリカ人の豪勢な暮らしぶりと、貧しいキューバ人の暮らしとの大き過ぎるギャップを、言ってもせんないこととは知りつつも、ハドソンに向けて直接訴えるのである。ビミニで召使として仕えながらも一家と共に楽しくやっていたエディと比べると、ハバナのこの運転手はそんなどころではないのである。一家の為の米を手に入れるのにも苦労しているという。この時代のキューバという国の貧窮が、激しく浮き彫りにされる場面でもある。

 ともあれ運転手の毎度のこのふてくされた態度が、ハドソンの機嫌を益々悪くしていく。
 
 上巻の海の美しい描写とは打って変わって、ハバナの貧民地区やハバナ港のうんざりするような汚さを描く場面が続く。繁華街に降りて行く途中で一ヶ所だけ、ハドソンにスペインのトレドを思い出させる場所がある。だがそれもほんの一瞬で、またすぐにキューバが〝左右に詰め寄る〟。

 ハドソンは、休暇の初日から、しかも朝っぱらから酒を飲んでいる。髭を剃りながらミネラルウォーター割りのウイスキーを飲み、車に乗り込みながらよく冷えたトム・コリンズ(椰子汁にビターズを入れ、生のライム・ジュースに本物のゴードン・ジンを入れたもの)を召使から受け取る。

 ハバナの中心街に着いて大佐を訪ねるも、大佐は不在で、そうするとすぐさま馴染みのカフェに行き、またもやトム・コリンズを注文する。1杯目、2杯目、3杯目……。親しい友人、あまり親しくない友人、馴染みの売春婦などが声をかけて寄って来る。ハドソンは杯を重ねながら、少しずつ思い出語りなどに没入していく。

 売春婦を相手に、中国での暮らしを回想するくだりなどは、世界中を渡り歩いたハドソンの輝かしい軌跡を想像させる。そして、3人の息子を向かえたビミニでの微笑ましいバカンス……。上巻で示された彼の良き父、画家としての生活は何と様変わりしてしまったことか、と思い知らされるのである。

 その後、彼の1番目の妻であった女性の登場とあいなるのであるが、物語全体においてはそれは大したインパクトを与えてはいない。彼女は世界的に有名な女優ということだが(往年の大女優でありヘミングウェイ自身のよき友でもあったマレーネ・ディートリッヒがモデルだということだ)、登場シーンの華々しさにしては、小説の展開にさほどの効果を上げていないのではないかというのが、私の受けた印象だ。この小説は、ヘミングウェイの遺作であり、実は完成の目もみておらず、刊行されてもいなかったものを、後にヘミングウェイ夫人と版元とが協力して編集し出版したものである。だからヘミングウェイはもしかして、このくだりをもっと後で推敲し直すつもりだったのかもしれない、と勝手に思った。

 ともあれ元妻を〝農場フィンカ〟に残して、ハドソンは再び出動する。軍部からの緊急指令が下ったのだ。

 そして、舞台は一変して第3部『洋上』へ――。

 ハドソンは、追跡船の舵を取っている。ずっと伏せられていた軍における彼の任務が、メキシコ湾におけるドイツ軍の潜水艦〝Uボート〟の監視であることが、ここでようやく明らかにされる。

 彼らが受け取ったのは、数日前にドイツのUボートが撃沈されたという報告だった。そして、逃亡したらしい数人のドイツ兵を追い、可能であれば1人でも生きたまま捕獲せよというのが彼らに与えられた指令だった。

 ここから物語の様相はガラリと変わり、余談を許さぬ緊迫した追跡劇が始まる。私としては、この第3部が全体を通して一番、読み物として楽しめたのだが、特に、軍事命令を受けて見えない敵を追いながら生きるか死ぬかの冒険に身を投じているにもかかわらず、男たちのチームワークの良さ、お互いをいたわり合う時の、男同士ならではの爽やかさというか、潔さ、そして運命を共にする者としての一体感の描写が実にいい。こういうものを書かせたら、ヘミングウェイの右に出るものはいないのではないかと思うくらいだ。男の世界、私ら女や子供には絶対に真の意味では入り込めない、まるで聖域とでも呼べそうな均一さがそこにはある。そこには、力が、武器が、度胸と勇気、信頼と友情が介在している。彼らは協力して各々の仕事をてきぱきとこなしていく。水や食料の調達、その管理、いかりの上げ下ろし、銃の解体、掃除など……。そんな中で、引き続き自らを痛めつけるように舵を取り続けるハドソンを、周りの人間がそれとなくいたわる様子がとてもいい。(最近知ったのだが、こういうのを〝ブロマンス〟というのだそうですね)

 『海流のなかの島々』は、ヘミングウェイの遺作であると共に、自らを投影して書いたある男の人生悲劇である。それゆえ、トマス・ハドソンに幸せな結末が訪れることはない。だが、にもかかわらず、海や砂浜や空の色、マングローヴの生い茂る島の岸辺、遠くに見えるフラミンゴの群れなどの描写はあまりにも美しく鮮明である。海を愛し、自然を愛した行動派の作家、ヘミングウェイならではの描写の中で、自然と戦闘が当然のように交錯する。それら2つは対称的であるが為に大きなインパクトを持って読み手の心に迫ってくる。そしてその混合は、何故こんなに魅力的なのだろう?

 この物語を読み終えて、救いようの無い悲劇だという思いと、何か一風変わった飲み物を初めて飲んだときのような、妙に後を引く独特な印象が残った。

 そう、アンゴスツラ・ビターズ入りのトム・コリンズのように。

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