映画『福田村事件』感想 他者よりも自分自身の差別心・残酷さを恐れるべし
そこそこエグイ作品を観ているつもりですが、やはり現実に起きた残酷の不快さは、フィクションの比ではありませんね。映画『福田村事件』感想です。
『A』『A2』『FAKE』などのドキュメンタリー映画で知られる森達也監督による初めての劇映画作品。ただ、題材となったものは2023年の今年に100年が経過する関東大震災、その最中に起こったデマによる朝鮮人の虐殺、特に福田村という地で起きた疑いを掛けられた行商団への殺戮という、恐るべき史実であり、自分の視点で事実を伝えようとする、森達也監督の表現方針は変わっていない作品だと思います。
基本的に、特定の主人公を設けているわけではなく、いわゆる群像劇というスタイルになっています。それぞれの登場人物の背景を描いて、クライマックスの史実の出来事に繋げていくという、劇映画としての巧みさを魅せる脚本ですね。脚本家の1人の荒井晴彦さんは、今作の企画立案にも携わっているそうです。
その前半で描かれる福田村で生きる人々の背景が、いわゆる村社会描写になっており、「田舎住みたくない」エピソードのオンパレードになっています。この嫌なエロティック描写が、生理的に受け付けない人も多いし、不必要に露悪的な気もしますが、ただこの「狭い福田村」というものが、「視野の狭い当時の日本」という部分にも繋がっていくものでもあると思います。
もっと言えば、この100年前の日本を描いた物語が、現代の日本にも繋がっていく描写にもなっているんですよね。不貞に溺れた橋渡しの倉蔵(東出昌大さん、よくこの役OKしたと思います)と咲江(コムアイ)の決死の言葉に、村人が耳を貸さなくなっていく姿は、現代でも芸能人の不倫ばかりが叩かれて、もっと重要な政治の不徳に対しては声が挙がらないという構図と同じ事が起きているようにも思えます。
現代でフェイクニュースが広まるのは、インターネットの発展やSNSの普及によるものという見方をされることも多いのですが、今作での「朝鮮人による犯罪」という全っっったくのデマが広がっていく様は、ネットの普及など関係なく、ひとえに人々の愚かさによるものだということを知らしめています。
そして、その差別が起こるのはいつだって「恐怖心」からなんですよね。人々が朝鮮人による暴動というデマを信じるのは、「今まで散々いじめてたから」という身に覚えがあることによって信じ込んでしまう描写があります。差別する側は自覚的ではないと常々言われていますが、その実、自分が差別していたことを自覚していたことが、非常時では露呈するのかもしれません。
この作品に出演するというだけで、それぞれの役者陣は並々ならぬ覚悟だったと思いますが、どの役者さんも凄まじい演技でした。水道橋博士が演じた長谷川秀吉も、差別する側の極北なわけですが、演じるのが非常にストレスなのではと心配になるレベルの醜さです。それぞれ、差別感情のグラデーションになっているような演技であり、各キャラクターの掘り下げがきちんと出来ているのを感じさせます。個人的に電気グルーヴファンだからというのも差し引いても、新聞社の砂田を演じるピエール瀧さんの、思う所はあるけれど口に出来ない演技、やはり役者としての力量を感じてしまいました。
部落民という出自により差別され続けた沼部新助だからこそ、「朝鮮人だったら殺してええんか?」「殺してええ人間なんかおるんか!?」という至極当たり前の正論が、凄まじい意味と怒りが込められているように感じられました。この永山瑛太さんの演技、作品の主題を突き刺すような名シーンになっています。
未だに朝鮮人への虐殺を無かった事にしようとする政治家たちに、この史実が突き刺さることがないというのが歯痒くて仕方ありません。歴史に学び、認めた上で、これから何をしていくか考えるのが政治家の仕事なんじゃあないんですか?
100年前の出来事ですが、現代でも起こることは間違いなくあり得るし、その人間の本質を認めて、自分自身を恐れ続けない限り、この惨劇は終わったことにはならないと思います。この史実を受け止めない人、特に政治家は、信頼するに値しない人物ということだと断言します。
関東大震災という災害で失われた命、その混乱で殺戮された命、どの民族の魂にも全て等しく哀悼の意を表すべきものです。2度とこんな惨劇を起こさないために自戒し続けます。
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