大内定綱

 はい!やってまいりました。孝太の雑録。

 皆さんは大内定綱という武将をご存じでしょうか?伊達家の家臣であり、政宗の代の家老です。有名な武将は大名が殆どであり、家老である直江兼続や太原雪齋と比べても知名度が低く、おそらくご存じでない方も多いと思います。かくいう僕もNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」で初めて知りました。
 今日はこの大内定綱という人物についてアンサイクロペディアを元に考察したいと思います。なのであくまで仮説として読んで頂ければ幸いです。

1 前半生

 大内定綱(以下定綱)の名が歴史上に現れるのは、1582年に小斎城の戦いにて伊達輝宗に従軍したあたりからです。ではそれまで彼は何をしていたのか?
 通説によるのであれば、彼は周防(山口県)の大内家とは無関係であり、片平氏の系譜の方の大内家の出身とされています。しかし、ここは敢えてアンサイクロペディアに記載してある周防の出身という説を取りたいと思います。

 1545年、定綱は周防、長門(山口県)、更に安芸(広島県西部)、北九州まで勢力を広げていた大内義隆(以下義隆)の(恐らく)末子として山口に誕生しました。しかし、広域に影響力はあったものの1542年の出雲遠征に失敗してから、義隆の政治への意欲は失われており、もっぱら文雅に走ったため、領国は乱れ、家臣の不満も募る一方でした。

 1551年、定綱が6歳の時に彼の人生を一変させる事件が起きます。家臣、陶晴賢(当時は隆房)が謀反を起こし、父義隆は暗殺されてしまいました。いわゆる大寧寺の変です。そして兄達も殺されてしまい、生き残った定綱は逃亡生活をする事になります。その後、大友宗麟の弟、晴英が名を義長と改め、大内家の当主となりますが、陶晴賢の操り人形でしかなく、何の実権もありませんでした。その晴賢も1555年に毛利元就に滅ぼされ、2年後の1557年には大内義長も毛利元就に領土を奪われ、大名としての大内家は滅ぼされてしまいました。こうして戻る場所を失った定綱はどうなったのか?僕はこう考えます。
 この時期、僅かに残った大内家の旧臣と共に京にいて、浪人生活を送っていたのではないでしょうか。その間に公家や武士と交流を深めて、武芸や教養を磨き、縁あって、東北の大内家の養子になったのではないかと。この時代、没落したとはいえ、名門の血は引く手あまたでした。特に成り上がった家は、血筋に拘る余り名門出身者を欲していました。ましてや定綱は大内義隆の子です。厚遇されたことは想像に難くないでしょう。
 京から二本松に移った定綱は、大内家の当主となり、まず行ったのが主筋である田村氏からの独立です。周防大内氏と違い東北の小領主でしかなかったこの大内氏は、立場が常に不安定でした。有力大名である蘆名氏や伊達氏と主筋を幾度となく変えながら、保全を図るしかなかったのです。この背景には父義隆の失敗があり、御家安泰を第一に考えていたと思われます。或いは強い大内家の再興を考えていたのかもしれません。しかし、それも長く続きませんでした。後に主君となる伊達政宗(以下政宗)の登場です。

 最初は政宗を軽く見ていた定綱ですが、小手森城の撫で斬りを目にし、恐れを抱きます。更に政宗の父、輝宗を畠山義継に暗殺させる等、計略を巡らしますが、勝つ事は出来ず、遂に1588年、伊達成実の説得により、政宗に降伏。以後、伊達家に臣従することになります。

2 後半生

 領主としてはさほど活躍できなかった定綱ですが、彼の真価は政宗の麾下に入ってから発揮されたようです。
 豊臣秀吉の政権下、政宗は幾度となく、粛清の危機を迎えます。その都度定綱は間に入って、問題を解決しています。更には政宗の供として、京で開かれた会議や宴にも参加していたようです。彼が生まれた当時、山口は小京都と呼ばれており、京から多数の公家が下向していました。大内氏はそう言った人達から学問、和歌や詩を習っており、定綱も例には漏れず、教養をつけていたのだと思われます。政宗自身も教養人ではありましたが、定綱のサポートもあり、豊臣政権下でも重要な地位にいられたのではないでしょうか。父義隆が滅ぶ原因となった文雅の道が、その後の定綱の人生を助けているのだとすれば、皮肉な話ですね。
 伊達成実が一時出奔した後も、その穴を埋めるべく、主家の発展に貢献し、関ヶ原の戦いの後、政宗が本拠地を仙台に移してからも、活躍し続けました。
 1610年、定綱は65歳(数え年66歳)で亡くなりました。生前の彼の功績から息子の重綱は一族の家格を与えられ、以後何代にも渡って大内氏は伊達家中で重きをなしました。
 大名としての大内家の再興は叶いませんでしたが、名門としての大内家の再興は叶ったのではないでしょうか。

3 おわりに

 というわけで今回は大内定綱にスポットを当てて見ました。一見あり得ないような話でも視点を変えてみるとそうでもなかったりしますね。
 ところで政宗は、父の死の原因を作ったと思われる定綱を何故殺さなかったのか?それはやはり名門大内家の出身だったからではないでしょうか。政宗は名門の末裔を多く召抱えています。伊達騒動で有名な柴田外記は長宗我部元親の孫ですし、大坂の役後、真田幸村の子を引き取って養育しています。それだけ名門の血というのは、この時代需要があったんでしょうね。
 
 今日はここまでとします。最後までお読み頂きありがとうございました。

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