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【多様性を考える①】学校教育と国際理解

公立中学校の巡回指導をしていた頃、東京オリンピックを控えていたこともあり、どこの学校でも「国際理解教育」が盛んでした。

ある日、訪問学校の「学校だより」にたまたま目を通すと、国際理解や多様性に関する管理職からのコメントがありました。

そこには、かつて中学国語の教科書にも掲載されていた、
本多勝一氏の「アラビアの遊牧民」
からの引用が使われていました。
その概要はこんな感じです。

アラビア人は、お皿を割ったとしても、
「この皿は今日割れる運命にあった!」と言い、過失を認めない。
一方、皿を割ったのが日本人であれば、すぐに謝る。

しかし、この日本人の美徳は世界的に通用するものではない。

異民族に侵略された経験が多い国ほど、自分の過失を認めない。なぜなら、自分の失敗を認めることは、無条件降伏を意味し、民族全体の命を奪われかねないからである。

世界を見渡すと、このアラブの考え方は、日本の考え方よりもはるかに一般的である。日本のように島国で、どこの国にも占領されたことがない国は、世界でも稀である。日本こそ、世界でも特異な国なのである。

私はこれを読み、大変共感しました。そしてこれを国際理解教育を論じるためにこの文章を引用した管理職のセンスにも嬉しくなりました。

そーなんだよ!
日本は島国で、単一民族・文化・言語の国だから、異なる価値観の人たちとの交流や共生に慣れていない。だからどうしても、日本の基準や価値観で他国を見てしまいがちになってしまい、日本人の美徳に反する文化や態度に批判的なことが多い。

例えば、日本人からすると「失礼な態度」でも、海外ではそれが普通、もしくは良いマナーってことはよくあること。

本来、文化の良し悪しなんてないんだよね。だって、その国の文化や常識は、その国の置かれた状況や環境によって作られていくものなんだから。環境が違えば、考え方も美徳も異なるに決まっている。

今求められている多様性や国際理解とは、他国の違いを尊重し、その背景や歴史も尊重し、違いをそのまま受け入れつつ、価値観の異なる人たちとも仲良くしていていくってことだからね。
そのために、今回のこの引用は中学生にもわかりやすくていいね〜

なんて思いながら読み進めていきました。

そして最後に、管理職はこう締めくくっていました。

だから、日本は素晴らしい国なのです。
失敗を素直に認めて謝罪できる、美徳のある誇り高い民族なのです。

『えっ?そっちー?」
「いやいや、それって本多勝一氏の言いたかったことと違うでしょー!!!
「しかもそんな結論を先生が言っちゃったら、国際理解はおろか、生徒たちに差別的な価値観を助長しているようなもんだよ。』

以前レオ・レオーニの「さかなはさかな」の例を出したことがありましたが、
結局私たちは、全く違う価値観や世界を、実際に自分の目で見て体験しないと、正しく想像することがむずかしいんだよな〜
と痛感させられた出来事でした。

さかなは「魚の視点」しか持っていないので、魚の視点でしか外の世界を想像できない。
日本の先生も日本でしか生活したことのない人が多いので、その点では”さかな”と一緒です。日本の価値観のレンズを通して他国を評価しがちになってしまうので、正確でない判断をしてしまうことがあります。

人種に関わらず、人ってみんなそういうところがありますが、特に日本のように、”歴史的に異民族との接触による悲惨な体験の少ない、ある意味では“お人好しの、珍しい民族”(本多 1966)である日本人にとっては、今のグローバルの視点を持つことは他の民族よりも難しいと言えるでしょう。
日本こそ、世界の最後の秘境かもしれないね(中尾佐助 栽培植物学教授)。




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