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制海権で見る太平洋戦争       ーーなぜ空母は決戦兵器なのか

 さて、皆さま太平洋戦争で制海権が重要なのはご存知でしょうか?
 そう、海軍力こそが太平洋において決定的に重要だったのです。
 では、制海権とはどうすれば確立できるかご存知でしょうか?
 実は太平洋戦争の歴史を追う中でそれが見えてきます。

 どうもミリタリーサークル 『徒華新書』です。  
  本日のミリしら(ミリタリー実は知らない話)です。
 @adabanasinsyo

 本日は久保智樹がお送りします。
 @adabana_kubo

 日本は満州事変から数えておよそ15年の間戦争の時代にありました。
 戦域も中国、ビルマ、太平洋と広域にわたっていました。

 弊サークルの網野は、恐ろしいことに、真珠湾の次に起きた重大事件を聞くと東京大空襲と言いました。
 
いっぱしのミリオタと思った人でも専門外の領域では意外と知識のムラがあるのが私と北条が歴史の流れを書こうというきっかけです。
 ということで徒華新書の2月の記事は通史を振り返ることです。
 
 そこで本日は太平洋戦争の歴史です。
 制海権をキーワードとして日本の戦争の流れを整理します。

 こんなこと知ってるよと言う方へ。
 最終章のアナリシスだけでも読んでください。
 あなたは本当に太平洋戦争を知っていますか?

 どのようにすれば制海権は確立できるのか?
 なぜミッドウェー海戦は「決定的」な敗北か?
 どの地点でなぜ日本の防衛は破綻したのか?
 
 本日のお品書きです。 


なぜ制海権を語るのか

 丸い星、地球。
 この球体はその7割が海です。
 しかし人類は残りの3割を巡って戦争をしてきました。

 例えば独ソ戦は広大な領土をめぐる戦争でした。
 そのような陸戦において重要だったのは、物資集積拠点となる大都市とそれにつながる道でした。

 しかし、太平洋戦争にはそのような大都市はもちろん、それどころか道も登場しません。
 その代わりに登場するのは島、島、島。
 だからこそ制海権、島と島を繋ぐ通商路の支配権、が太平洋戦争を語る上では欠かせないのです。
 そのため、この記事では「制海権」をキーワードにして太平洋戦争を語ります。
 
 かつて戦略論の名著『海上権力史論』のなかでマハンは語りました。
 「海洋の使用とコントロールは、歴史の一大要素であった。」と
 
 けだし名言でしょう。
 太平洋戦争とは海洋の使用とコントロールによって趨勢が決したことを思えば。

太平洋戦争前史

 1931年日本は満州事変を引き起こし国際社会と対立しました。
 1933年の国連脱退脱退により孤立を一層深めます。
 1937年は決定的な転機でした。
 日中戦争の勃発です。
 この時から日本8年にわたる戦争を戦います。
 日本は国際社会から孤立する中で次第にドイツやイタリアといった枢軸国との関係強化に動きます。
 そして英米との関係が急速に悪化します。
 とどめとなったのが1941年の南部仏印進駐です。
 1939年に勃発した第二次世界大戦で、1940年にフランスが崩壊すると日本はフランスのインドシナ植民地に手を伸ばします。1941年7月にその全域を支配下に置くとアメリカが日本に対する石油の輸出を停止します。
 日米の間で事態解決のための交渉が行われますが遂に解決せず日本はアメリカに対する宣戦を布告しました。

日本の制海権の確立
ー大東亜を席巻する日本ー

<日本の開戦理由と戦略>

 日本が開戦に踏み切った最大の理由は「石油」です。
 航空機用燃料で1年、船舶用の重油で半年の備蓄しかありませんでした。もし1941年に開戦しない場合には、半年で二度と軍事行動が起こせない状況になるのです。所謂「ジリ貧」論です。
 待っていてもあるのはただただ締め付けられて石油不足から軍事行動が取れずアメリカに屈服するという状況でした。座して死を待つか、死中に活を見出すかの2択が日本の政治決定の論点でした。
 そして1941年9月6日『帝国国策遂行要綱』の中で10月までに対米交渉がまとまらなかった場合、自存自衛のために開戦することが決まりました。

 開戦する場合に重要な戦略的要求は当然石油の確保です。
 東南アジアの資源地帯を確保し軍事行動の継続に必要な石油を確保することが第一の目標となりました。
 そして東南アジアで軍事行動を安全に行うために何としても連合国の海軍戦力を無力化して制海権を確保することが必要でした。

<真珠湾攻撃>

炎上する戦艦

 日本海軍の空母機動部隊がアメリカ海軍太平洋艦隊を奇襲。
 1941年12月8日大日本帝国はアメリカ、イギリス、オランダに宣戦を布告しました。
 開戦劈頭日本軍は空母6隻からなる機動部隊を編成しアメリカ太平洋艦隊の根拠地ハワイの真珠湾に対して航空攻撃を実施します。
 艦載機350機からなる攻撃は戦艦4隻撃沈を筆頭に全8隻の戦艦を行動不能にし大きな損害を与えました。
 ただし攻撃目標の一つであった敵空母は湾内におらずこの撃破はできませんでした。
 この奇襲攻撃の結果、アメリカ海軍はまとまった軍事行動を起こせない状況を作り出すことができ、初戦において太平洋最大の戦力アメリカ太平洋艦隊を無視して軍事行動が行える状況が作り出されました。真珠湾攻撃は日本が制海権を確保するためにまず敵海軍を打撃するという作戦だったのです。
 
 戦闘は日本の圧勝であったがアメリカでは「リメンバーパールハーバー」を合言葉に以後日本に対する強い継戦姿勢を見せることになり、その生産力を活用して日本を苦しめることになります。

<マレー沖海戦>

戦艦レパレスとプリンス・オブ・ウェールズ

 イギリス東洋艦隊に対する日本軍航空隊による撃滅戦。
 12月8日イギリスは戦艦レパルス巡洋戦艦プリンス・オブ・ウェールズと駆逐艦4隻からなるZ艦隊を東洋に展開し、日本のマレー攻撃部隊への攻撃に出撃する。
 日本軍は潜水艦によりこれを捕捉し、12月10日に第22航空戦隊の陸上攻撃機84機を出撃させ攻撃を敢行した。
 同日13時過ぎより攻撃は開始され、レパルスとプリンス・オブ・ウェールズの両艦は撃沈します。
 本作戦は、真珠湾と異なり艦隊行動中の海軍が航空機により撃沈された初めての事例であり、海戦における航空機の有用性が世界で認識されることとなりました。
 これにより米太平洋艦隊に次ぐ脅威である英東洋艦隊も撃滅され日本軍の制海権は盤石になりました。

<陸軍の作戦>

 陸軍は太平洋戦争のために寺内大将の下「南方軍」を編成した。
 4個軍9個師団・3個独立混成旅団、2個航空集団を中核とした部隊が配備されました。
 この陸上部隊は開戦劈頭の「第一弾作戦」において3期からなる作戦を実施します。

ー第1期作戦ー

<マレーの戦い>

銀輪部隊

 イギリス東洋艦隊の拠点であるシンガポールの攻略を目的とした作戦。
 中立国タイの通過と上陸によりマレー半島への上陸によって速やかに兵力を展開し、マレー半島を制圧しました。日本軍の勝利は自転車を装備し快速の「銀輪部隊」や戦車といった機動戦力を集中的に配備し、機動力をもってマレー半島を突破したことにあります。2月15日までにイギリス東洋艦隊の拠点であるシンガポールは全域が日本軍の手に落ちました。
 この作戦で日本軍は10万以上の捕虜を獲得し、作戦を指揮した山下将軍は「マレーの虎」の異名で知られることとなります。

<フィリピンの戦い>

フィリピンを進撃する日本軍

 アメリカ太平洋艦隊の重要拠点フィリピンの攻略を目的とした作戦。
 陸海軍の航空部隊がアメリカの飛行場を強襲し地上で敵機を撃破する「航空撃滅戦」を展開し制空権を確保したのちに上陸が実施されました。アメリカ軍はバターン半島などで粘り強く抵抗したものの6月9日までにアメリカ、フィリピン両軍は降伏しました。
 アメリカ極東陸軍総司令官であるダグラス・マッカーサー将軍はフィリピンで指揮を執っていましたが最終的に脱出し、「アイ シャル リターン」と捲土重来を宣言しました。

<ボルネオ島の戦い>

 イギリス・オランダの植民地にある油田地帯の攻略を目的とした作戦。
 この地域の抵抗は少なく川口支隊の活躍により12月中にボルネオ北部が、坂口支隊を中心に1月中に全域が日本軍の勢力圏となりました。またセレベス島も併せて占領した。
 この地域は資源地帯であると同時に第2期作戦における航空機を投入する前線飛行場としての意義があります。制空権の確保という意味ではこの作戦が迅速に完了したことは大きな成果でした。

ー第2期作戦ー

<ジャワ島の戦い>

パレンバンに空挺降下する第一挺身団

 オランダの資源地帯の攻略を目的とした作戦。
 第一期で制圧したボルネオ島に航空機を前進させ、制空権を確保したことで2月14日ジャワ島の油田地帯パレンバンに対して第一挺身団が空挺降下を行い併せた上陸した第38師団が共同して同地域を占領しました。3月1日に日本軍はジャワ島全域の3地点に上陸を行い5日に首都のバタヴィア、7日にスラバヤを占領し9日にオランダ東インド軍は降伏します。
 これにより日本は南方資源地帯を制圧し不足する希少金属や石油を確保する目途が立ちました。

ー第3期作戦ー

<ビルマの戦い>

ビルマにおける日本兵

 英軍の根拠地ビルマに対する作戦。
 日本陸軍においてビルマ作戦はどこまで進出するか明確ではありませんでした。
 3月7日にビルマ作戦が発動されると8日にラングーンが陥落し、5月13日にカレワでイギリス軍2万を撃破したことで作戦の終了が決定されます。
 この作戦の完了は、イギリスから中国に対する軍事援助「援蒋ルート」を遮断することが達成されたために完了したのです。

<スラバヤ沖海戦>

重巡エグゼター

 日本海軍と連合国海軍によるジャワ島の制海権を巡る戦い。
 時期は前後して第2期の頃。この時期に連合国艦隊(ABDA艦隊)は日本の第一弾作戦の妨害のために度々出動していた。ジャワ沖海戦やバリ島沖海戦では双方とも大きな戦果を挙げることはありませんでした。別の言い方をすれば、ABDA艦隊は日本の第一弾作戦に対して海上での阻止に失敗したのです。
 2月25日ABDA艦隊はジャワ島に向かう日本軍の船団を捕捉しました。この船団を護衛する高木提督は輸送艦を退避させABDA艦隊との決戦を選択します。両軍合わせて30隻余りが激突する海戦となりましたが、日本側が駆逐艦1隻の損傷に対して軽巡2、駆逐艦5の撃沈と日本軍の完勝に終わりました。その後の3月1日の追撃戦でも重巡洋艦1、駆逐艦2を撃沈しました。この3月1日には被害を受けABDA艦隊から離脱していた残存の軽巡と重巡の2隻を撃沈したバタビア沖海戦も相まってABDA艦隊は壊滅します。

<アナリシス:緒戦の快進撃の要因>

 日本軍の快進撃は制海権・制空権の確立の賜物でした。
 真珠湾でアメリカを、バタビアでイギリスを、スラバヤでオランダを撃破したことで日本陸軍の作戦は妨害されることなく実施できました。
 一般に日本海軍の決戦主義は批判されることが多いですが、少なくとも太平洋戦勝の緒戦の電撃的な占領の成功は東洋にいる連合国海軍を撃滅したことで制海権が確保できたためだと言っても過言ではないでしょう。
 同時に無視できないのが、ジャワ沖海戦などでABDA艦隊が不活発だったのは、第1期作戦でボルネオ島を制圧しここに航空機を前進したことが影響しています。連合国は制空権を失い日本航空機を常に警戒せねばならず艦隊行動自体がリスクであったためです。


日本の空母機動部隊の喪失
ーミッドウェーの悲劇ー

<日本の勝利のヴィジョン>

 第一弾作戦の成功をしたことでどのように戦争を終えるのか議論が生じます。
 昭和17年(1942年)『今後採るべき戦争指導の大綱』が策定されます。
 要点は次のようになります。
 ・英国の屈伏、アメリカの戦意喪失のために戦果を拡充する。
 ・長期不敗の政戦態勢を整える。
 ・占領地域及び主要交通路を確保して、持久時その区の体制を確立する。
 ・戦争指導の具体的方策は、諸情勢を勘案して定める。
 といったものでした。

<第二弾作戦>

 第一弾作戦が3期にわたり実施され、フィリピンを除き一定の区切りがついたのが昭和17年(1942年)の5月頃です。
 この時期、次の作戦構想を巡って陸海軍の間で議論が生じます。大枠では戦果拡張を行い海軍と防御戦に移行することを主張する陸軍という構図でした。
 海軍はハワイやオーストラリアの攻略を主張しましたが補給の関係から陸軍は反対しました。また海軍内部ではインドを攻略しコーカサスにてドイツと接続する案や、アメリカとオーストラリアを海上で遮断する米豪遮断作戦などが議論されました。
 最終的に第二弾作戦の目的は「外郭要地作戦」として議論がまとまります。即ち第一弾作戦で確保した地域の外側に防衛圏を拡大させるという案です。
 外郭要地という考え方を通じて、防御しやすい地点を確保するという防御的な陸軍の主張と、外郭要地を確保する過程で追撃戦や米豪遮断作戦を実施するという海軍の主張の折衷です。
 具体的な外郭要地は、ニューカレドニア、フィジー諸島、サモア諸島、ポートモレスビー、アリューシャン列島でした。

<珊瑚海海戦>

空母鳳翔

 1942年5月1日ポートモレスビー攻略を目的としたMO作戦が始動します。
 ポートモレスビー攻略には二つの目的があります。
 ひとつがポートモレスビーからラバウルに飛来する重爆撃機B-17爆撃機の基地を潰すことです。
 もうひとつがアメリカとオーストラリアの連絡を遮断することです。これによって連合国の反撃を封じる狙いが米豪遮断作戦にはありました。
 輸送船12隻からなる南洋支隊の出撃とその護衛に空母3隻、重巡10隻を中心とした23隻の艦隊が出撃しました。
 対するアメリカはフレッチャー提督の下空母2隻、重巡7隻を中心とした23隻の艦隊で向かい打ちます。
 両艦隊派5月7日に衝突しここに珊瑚海海戦が勃発します。
 結果は両者の痛み分けに終わります。
 日本は空母2隻の撃沈の被害を受け、アメリカも空母1隻の撃沈、1隻の損傷でした。
 戦術的には引き分けの戦いでしたが、南方支隊の護衛を継続できないためにMO作戦は中止となり戦略的には日本の敗北となりました。

<ポートモレスビー攻略作戦>

 珊瑚海海戦の結果、海からのポートモレスビー攻略は失敗に終わりましたが、陸軍では陸路でのポートモレスビー攻略の動きが活発化します。
 ただし、ニューギニア北部に上陸して南部のポートモレスビーを目指すには天然の要害スタンレー山脈を踏破する必要がありました。
 結局この作戦は補給が続かず、連合国の反撃にあい失敗に終わります。

<ミッドウェー海戦>

空母赤城

 外郭要地としてフィジー、サモアの両諸島を確保するFS作戦が立案されていましたが、海軍の強い要望があり、この作戦実施前にミッドウェー島攻略作戦(MI作戦)が主張されます。
 ミッドウェー島の攻略の目的は、島の攻略を行うことでアメリカの空母機動部隊をおびき寄せ撃滅することでした。
 アメリカの空母機動部隊は太平洋においてゲリラ的に活動しており、散発的に日本の防衛の薄い地点を空襲するなど大きな脅威となっておりこれを撃破したいとの山本五十六提督の強い意向によりFS作戦の前に実施することが決まりました。
 5月27日にMI作戦のために部隊が出動する。
 6月5日空母4隻からなる南雲機動部隊は空母3隻からなるミニッツ提督率いるアメリカの空母機動部隊ならびにミッドウェー島航空隊と交戦しました。
 結果としては日本軍が主力の空母4隻の撃沈に対してアメリカ側は空母1隻の撃沈に終わりました。
 これまで日本の侵攻を支えていた空母機動部隊が大打撃を受けたことで日本の戦争の主導権は急速に失われます。
 それを象徴するようにFS作戦は延期となるのです。

< AL作戦 >

キスカ島における日本兵

 MI作戦と同時期にその陽動作戦としてアリューシャン作戦(AL作戦)が実施されました。
 目的はアッツ・キスカ両島の占領でした。
 米国の意表を突いたこの攻撃はアメリカ本土の両島を素早く陥落させることに成功します。
 この作戦成功はミッドウェー海戦の敗北を覆い隠すかのように大々的に報道されました。
 

<アナリシス:なぜ第二弾作戦は失敗したのか>

 第一弾作戦が所定の3期の目標をすべて達成したのに比べて第二弾作戦ではAL作戦を除けばMO作戦、FS作戦は中止に、MI作戦は大敗北と暗澹たる結果に終わりました。

 第一弾作戦が海空の兵力を活用して敵海軍の撃滅に成功したことと比較します。

 第二弾作戦の明確な欠点は、敵海軍の打撃を達成せぬまま中部太平洋線域に活動範囲を広げたことです。それに加えて第一期作戦のように前進飛行場となる地点を確保せずに作戦を実施したことで空母が艦隊を離脱すれば航空支援を得られないという環境で戦闘した点も大きな違いです。
 逆にMI作戦ではミッドウェー島航空部隊の勢力圏で活動したためにその対処も必要となり南雲機動部隊は過大な任務となったことは敗北の一因でしょう。
 
 その意味では制海権の確立やそれを補助する前進飛行場の確保を待たずに作戦を発起したことが第一弾作戦との相違点であり失敗の原因です。


日本の勢力圏の崩壊
ー飢餓の島を巡る戦いー

<ガダルカナルの戦い>

アメリカ海兵隊

 ミッドウェー海戦に勝利したアメリカ軍は戦争の主導権を確保するために軍事行動に出た。日本軍が飛行場を整備し基地化を進めていたガダルカナル島への上陸です。
 1942年8月7日アメリカ第一海兵師団がガダルカナル島に上陸し飛行場を制圧しました。
 対抗して日本軍は8月18日に一木支隊(大隊規模)を送りました。一木支隊は本隊を待たずして攻撃を実施したが、アメリカの火力の前に敗れました。続いて川口支隊、第2師団、38師団と次々と投入し数度にわたる総攻撃を実施しましたが遂にアメリカ軍を打倒することはできませんでした。
 このガダルカナルの戦いは日本陸軍が初めてアメリカ軍の正規部隊と戦い、その火力に敗れた戦いでした。それと同時に日本軍が十分な火力発揮ができなかったのは十分な輸送が行えなかったことも影響しており日本はこの島で多数の餓死者を出しました。

<ソロモン諸島の海戦>

南太平洋海戦における空母ホーネット

 ガダルカナル島を巡る戦いは陸軍同士の戦いであったのと同時に海軍も相互に激しい衝突をしました。主だった海戦は次の6つがあります。
・第1次ソロモン海戦
・第2次ソロモン海戦
・サボ島沖海戦
・南太平洋海戦
・第3次ソロモン海戦
・ルンガ沖海戦
 その目的はガダルカナル島への輸送を行う日本軍とそれを防衛するアメリカ軍という構図でした。これらの海戦の特徴としてガダルカナル島の飛行場からの攻撃を警戒した日本軍が夜間に行動したため必然的に夜戦が頻発したことです。
 また激戦の中で空母戦力を双方とも損耗し南太平洋海戦以降双方ともに空母1隻を保有するのみとなったことで空母戦が発生せず水上艦艇による戦闘となったのもこの海域での戦闘の特徴です。
 これらの海戦では日米は一進一退の戦いをしました。しかし結果としては航空基地の援護を受けたアメリカ軍が最後まで海域を維持しており、日本軍はこの海域において自由な活動を行うには隻数の面からも制空権の面からも困難となり撤退せざるを得なくなりました。

<ケ号作戦>

 ガダルカナル島からの撤退作戦。
 1942年12月31日に日本軍はガダルカナル島からの撤退を決めました。
 1943年2月1日に駆逐艦22隻からなる部隊がガダルカナル島の残存将兵の収容のために展開した。最終的に2月7日までに1万人以上の将兵がガダルカナル島を脱出します。
 この島を巡る戦いで日本は艦艇56隻、飛行機2000機、将兵2万名を失いました。

<第三弾作戦>

 戦況の悪化を受けて策定された海軍の次期作戦計画。
 策定は1943年の3月末ごろに行われた。
 「その意図は戦略用地の防備を速やかに強化し敵の来寇せば海上及航空兵力の緊密な協同のもとに之を先制攻撃す。」とされました。

<アリューシャン諸島の戦い>

アッツ島に上陸するアメリカ軍

 1943年5月アメリカ軍はAL作戦で占領されたアッツ島に対して反撃に出ました。
 守備隊は孤軍奮闘しましたが増援の見込みのない中で結果は自ずと見えており日本軍は敗れました。この時初めて「玉砕」という言葉が用いられました。
 これとは対照的にAL作戦で確保したキスカ島では部隊の撤退が行われ奇跡的に一人の将兵、1隻の船舶も欠かすことなく撤退が成功しました。

<絶対国防圏>

太平洋方面要域図 太い線が絶対国防圏 屋代(2001:p.81)より引用

 1943年9月に『今後採るべき戦争指導の大綱』が改訂されます。
 守勢に回った日本軍のとるべき戦略方針が打ち出されます。
 この中で絶対確保領域という概念が登場する。いわゆる「絶対国防圏」です。
 その地域とは、千島、小笠原、内南洋諸島、西部ニューギニア、ズンダ、ビルマと規定されました。
 その目的は外郭要地と似ていますが設定された線は、アメリカ爆撃機から日本の資源地帯や政経中枢を攻撃されない為に保持が必要な地域とされました。
 しかしながらこの後退はトラック諸島やラバウルといった海軍の戦略拠点すらも放棄するもので海軍からの反発にあいました。海軍としてはマーシャル諸島やギルバート諸島、ラバウルの航空隊と連合艦隊で共同して敵を打撃するZ計画を企図しておりそれと相反する計画だったからです。
 アメリカ海軍の視点からもこのZ計画は脅威と考えられていました。アメリカ軍はマーシャル諸島の航空基地を「マーシャルバリア」として警戒しておりこのZ計画にも一定の妥当性があったことは伺えます。
 結局のところ絶対国防圏を強化するまでは今の全線で遅滞するという妥協的な結論に落ち着きました。

<アナリシス:なぜアメリカの反撃を阻止できなかったのか>

 アメリカ海軍の上陸作戦を阻止する場合2つの方法が考えられます。
 ひとつは陸軍を活用して上陸部隊を撃砕すること。
 もうひとつは海軍を活用して敵の補給路を妨害すること。 
 
 このうち陸軍による敵の撃砕を試みたのがガダルカナル島の戦いです。
 しかしながら、十分な規模の部隊を揚陸できずかつ補給が続かなかったために失敗しました。この失敗は結局輸送路の安全が確保できなかったことに起因します。
 また海軍による試みも幾度となく行われた海上決戦の結果、遂に主導権が確立できず失敗に終わりました。

 この2つの事例に共通する背景があります。
 それはガダルカナル島のヘンダーソン飛行場を占領したアメリカ軍がその飛行場からガダルカナル島周辺の制空権を確保していたことです。
 この結果陸軍に対する補給が滞り、海軍も昼間に満足に艦隊行動がとれませんでした。
 もし仮にヘンダーソン飛行場の航空機に対抗可能な近場の飛行場があったのなら状況は変わったのかもしれません。しかし、たった1隻の軽空母しか保有しない日本軍にはそのような近場の飛行場を代替することも適わなかったのです。

 極言すれば、航空機に対抗できない以上は、陸戦も海戦も満足に行えないのが島嶼戦の現実なのでした。


日本の制海権の完全喪失
ー天祐我にあらずー

<アメリカの作戦計画>

 アメリカは44年以降の対日計画を巡って意見対立していました。
 前提として、1942年に反撃に出たアメリカは1943年の終わりには中部太平洋において優勢となりました。
 そのアメリカには2つの戦略方針がありました。
 ひとつは陸軍のマッカーサー将軍の主張したニューギニアを伝ってフィリピンに向かう案。これは彼がフィリピンの失地を回復したいという強い執着から来るものでした。
 もうひとつはニミッツ提督の主張したマーシャルやギルバートなどの島嶼部を突破する作戦を主張した。
 陸海の対立は日本のお家芸のイメージかもしれませんが結局のところどこの国でも起きることでした。しかし国力のあるアメリカはこの二つの計画を同時に進めるという荒業で解決を図りました。

<ニューギニアの戦い>

蛙飛び作戦

 アメリカの蛙飛び戦略により重要拠点を回避されニューギニア方面の第17軍が孤立した戦いです。
 MO作戦以来ニューギニアでは日米のにらみ合いが続いていました。
 マッカーサー率いるアメリカ陸軍は所謂「蛙飛び」作戦を行い日本軍の防御の薄い地点に上陸することで日本軍の無力化を図りました。

<マキン・タラワの戦い>

マキンに上陸するアメリカ兵

 島嶼部の突破を志向したアメリカ海軍は1943年11月20日ギルバート諸島のマキン・タラワ両島に上陸した。
 マキンは20倍以上の兵力差から4日で陥落したものの戦没者数はアメリカの方が上回るなど奮闘を見せた。
 タラワでも5日間の奮闘によりアメリカ上陸部隊の実に17%が死傷するなど激戦を繰り広げた。
 日本軍はこの攻勢を牽制と判断しZ計画に基づく全力出動を行わなかった。
 少数の航空機、潜水艦によるギルバート沖航空戦が発生した程度である。
 ここに艦隊決戦主義における主攻勢がどこであるのかを見極める難しさが伺える。

<マーシャル諸島の戦い>

ギルバート諸島における空母レキシントン

 アメリカ軍の恐れた「マーシャルバリア」は次のように突破された。
 制圧したギルバート諸島の飛行場を活用してマーシャル諸島の日本の航空部隊に対し航空撃滅戦を仕掛けたのである。狭いマーシャル諸島では機体を隠すことができず見る見るうちに日本軍はすり減った。
 そして航空機の脅威を排除したのちに海軍に援護された海兵隊によってクウェゼリン環礁に侵攻するフリントロック作戦が1944年1月30日に始まり6日で所定の目標を達成した。
 マリアナバリアは結局のところ期待された成果を挙げることはなく、この時も連合艦隊の出動はなかった。

<トラック空襲>

空襲されるトラック島

 アメリカ海軍機動部隊による日本の拠点への空襲。
 トラック泊地は帝国海軍にとっての最重要拠点であった。
 中部太平洋における日本の真珠湾のような最重要拠点であり、アメリカは陸上侵攻を見送った。その代わり航空機による大規模な攻撃を企図した。
 この動きを察知した日本海軍は2月10日に連合艦隊の主力をパラオに退避させた。
 1944年2月19日この泊地に対してアメリカの空母9隻からなる第58任務部隊の艦載機500機以上が来襲した。
 被害は甚大であり日本は航空機270機、軽巡2隻、駆逐艦4隻を失った。それ以上に影響が大きかったのは31隻総トン数194000トンもの輸送船が撃沈されたことである。
 特に輸送船の被害はその後の海上作戦に大きな支障をきたした。
 またこの攻撃によってトラック泊地が安全圏でなくなったことを確信した日本は連合艦隊司令部をパラオまで後退させた他、中部太平洋最大の航空基地であるラバウルからの航空機の撤収も併せて実施することとなり、これ以降中部太平洋の制海権は完全にアメリカの手に渡ることとなった。

<マリアナ沖海戦>

攻撃を受ける空母瑞鶴

 空母9隻からなる機動部隊と虎の子の第一航空艦隊ならびにパラオの基地航空隊をもって敵艦隊を撃滅する作戦でした。
 連合艦隊はトラックを失い絶対国防圏の内側に退避しました。
 その連合艦隊司令長官に豊田副武大将が着任します。
 1944年5月3日豊田司令長官は「あ号作戦」を発令します。
 しかしながら2つの事件がこの作戦を狂わせます。
 ひとつは第一航空艦隊が北部ニューギニアの「渾作戦」に投入され1600機の稼働機を350機まで減らしたこと。
 もうひとつがパラオが米空母機動艦隊の空襲されこちらも壊滅的な被害が生じたこと。
 結果的に2000機程度の航空機をもってアメリカと対決する予定が艦載機430機あまりに決戦前に損耗していました。
 付け加えるならば連合艦隊は敵の攻勢はパラオと想定しておりマリアナに対する準備は不十分でした。
 しかし6月19日にアメリカがサイパン上陸に動いたことで万全ではないが「あ号作戦」を発動する。
 しかしこのような状態で決戦に挑んだ結果は悲惨の一言です。
 アメリカ側の空母2隻が小破したのに対して日本側は空母3隻の撃沈、4隻の損傷、艦載機400機の損失を被る大敗でした。
 そしてなにより絶対国防圏であるサイパンにアメリカ軍の上陸を許してしまうという決定的な戦略的敗北でもありました。

<サイパンの戦い>

サイパンに上陸するアメリカ兵

 絶対国防圏の一角であるサイパン。
 勇ましい響きとは裏腹に防備は遅々として進んでいなかった。
 陸軍は1944年においてビルマにおける「インパール作戦」、中国における「大陸打通作戦」の実施をしており、サイパンの防衛兵力の派遣は遅々として進まなかった。
 またあ号作戦においてアメリカ軍の来襲はパラオ諸島が想定されておりサイパンの優先順位が低いことも影響した。
 配備された第43師団も新設の師団で練度が不十分であった。
 サイパンはマリアナ海戦の結果制海権を完全にアメリカに掌握され守備隊は玉砕した。
 サイパン陥落によってアメリカは日本本土をB-29重爆撃機で攻撃可能となった。
 その後もグアム、テニアンといったその他の絶対国防圏地域も陥落し日本の長期持久構想は完全に瓦解した。
 この影響で東条英機首相兼陸軍大臣兼参謀総長は退陣し予備役送りとなった。

<台湾沖航空戦>

台湾沖航空戦における天山雷撃機

 サイパンが陥落したことで時期決戦がフィリピンだという確信を日本軍は抱いた。
 10月12日に台湾の索敵部隊はアメリカの空母機動部隊を補足した。
 アメリカの空母機動部隊の目的は台湾の航空隊に対する攻撃でした。
 台湾を根拠地とした「T攻撃部隊」を中心に日本海軍航空隊は全力出動をした。
 10月12日から16日までの4日間の戦果は次のように発表された。
 空母19隻、戦艦4隻を含む敵艦45隻の撃沈である。
 しかし実際には軽巡2隻の大破であった。
 引き換えに日本軍は300機の作戦機を喪失した。
 陸軍はこの報告を信用しフィリピン決戦の作戦判断に影響を与えました。
 海軍では偵察の結果誤認戦果であることは確認したが陸軍には通報しませんでした。

<捷号作戦>

 アメリカ軍のフィリピン来襲に対して捷一号作戦が発動されたのが10月23日。
 日本海軍は残存戦力の全てをこの決戦に投入しました。
 連合艦隊は空母4隻、戦艦7隻が主力でした。
 対するアメリカは正規空母17隻、護衛空母18隻、戦艦12隻の圧倒的陣容でした。
 このレイテ沖海戦は4つの小規模海戦の総称です。
 ・シブヤン海海戦
 ・スリガオ海峡海戦
 ・エンガノ岬沖海戦
 ・サマール島沖海戦
 これらの戦闘を経て10月25日に戦闘は終了する。
 日本側の被害は空母4の全滅、大和型2番艦「武蔵」含む戦艦3隻の撃沈の被害だった。
 対してアメリカ側は空母1、護衛空母2の撃沈の被害を受けたがフィリピン上陸部隊を守り切ることに成功しました。
 この開戦の結果日本海軍は組織的抵抗力が崩壊し、以後アメリカ海軍の作戦行動を防止する手段はほとんどなくなった。
 日本に残る手段は航空機のみとなる。そしてその航空機は特攻作戦に用いられます。

<フィリピンの戦い>

レイテ島に上陸するマッカーサー

 「大本営は本年後期米軍主力の比島来攻に当たりては之に対し国軍決戦を企画す」
 
 10月20日アメリカ軍はフィリピン中部レイテ島に上陸しました。
 陸軍大本営としては北部ルソン島での決戦を準備しており中部への転換は困難と考えていましたが、台湾沖航空戦の結果アメリカ海軍の脅威が低下したと認識してしまったことでレイテでの決戦は可能であるという判断に至ります。
 10月29日より急遽レイテ島のオルモックに部隊の輸送を開始します。
 しかしながら制海権、制空権を完全に握られた中での輸送は悲劇的でした。
 輸送船34隻のうち22隻が撃沈されました。当然揚陸された部隊には「国軍決戦」を行う能力などあるはずもなかったのです。
 戦力集結を目的とした輸送に失敗しかつ万全の状態のアメリカ軍を前にしてレイテでの国軍決戦の夢は幻に終わります。
 結局1945年1月27日に捷号作戦は打ち切られます。
 残された日本軍は終戦までの間残存兵力を活用してフィリピン各地で飢餓と物資欠乏の中でゲリラ的に抵抗する他なかったのです。

<アナリシス:なぜ日本の防衛戦は破られたのか>

 日本海軍は制海権の確立のために艦隊決戦や航空機による襲撃の実施を試みました。
 
 マーシャルバリアによる航空攻撃。
 あ号作戦による海軍と空軍による総攻撃。
 台湾沖航空戦による航空攻撃。
 捷号作戦による陸海空軍力の総結集。

 しかしどの作戦もアメリカ機動艦隊の奇襲の前に後手に回りました。
 日本の決戦志向は敵を捕捉しないと成立しないのです。
 しかし情報戦や電子戦においてアメリカに後れを取っていました。
 それに加えてアメリカ軍は空母機動部隊を活用して戦力が集結する前に日本軍を叩くことができたのです。
 
 マーシャルバリアにおける航空撃滅戦。
 あ号作戦におけるパラオ航空隊の航空撃滅戦。
 台湾沖航空戦においても米国が台湾に航空撃滅戦を仕掛けたことから始まった。
 捷号作戦においても数で勝る米軍は4つの大きな海戦の全てで主導権を握りました。

 結局のところ戦場をアメリカが決定できたのです。
 その理由はアメリカの高速な空母機動部隊は敵の弱点を突き、自在に離脱できるからです。アメリカの空母機動部隊は目的を達成すれば戦場を離脱するのでなかなか捕捉できません。アメリカの空母機動部隊との決戦は空母が上陸支援のために海域に留まるのを選択したときにのみ発生するのです。即ち決戦の場所はアメリカが上陸し勝てる場所になるのです。
 日本は決戦を選択したのではなかったのです。決戦に誘い込まれたのでした。
 しかも後方を空母機動部隊が荒らしまわられ日本に有利な条件を周到に潰した上でです。
 
 なぜ日本の防衛線は破られたのか。
 それはアメリカが勝てる戦いをする条件を整えたときのみ決戦が生じるからです。そしてその勝利が決定的だからこそ日本の防衛線は崩壊するのです。

制海権なき持久防御の戦い
ー玉砕の島々ー

<本土決戦の構想>

 日本の国運をかけた捷号作戦が失敗に終わった後、日本はどのように戦争を終結させようと考えていたのか。
 1945年1月20日『帝国陸海軍作戦大綱』が策定されました。
 ・重点を米軍の侵攻に指向する。
 ・対米主戦面を太平洋および東シナ海正面を規定する
 ・ホントにおける作戦準備の重点は関東地方、九州地方および東海地方とする。

 この本土防衛の時間を得るために残存地域での持久防御が求められます。
 
 このように日本は本土での最終決戦を考えていました。
 その後の出口戦略は6月22日の『今後採るべき戦争指導の基本大綱』で定められ、本土決戦の完遂とその後のソ連による仲介による和平の道を想定していました。

<硫黄島の戦い>

『硫黄島の星条旗』

 アメリカ軍は日本に対する本土空襲の中継地点として硫黄島に目を付けました。
 日本側は栗林中将の下で硫黄島の要塞化を進めていました。
 1945年2月19日よりアメリカ海兵隊が硫黄島に攻撃を行います。
 硫黄島では日本軍は最後まで万歳攻撃を行わず持久戦闘を行い、アメリカ軍に多大な出血を強いました。
 アメリカの死傷者は1万9千人を超え、その程度は日本を上回るほどでした。
 しかし最終的に3月26日に硫黄島は陥落し、以後B-29の中継地点やその護衛のP-51戦闘機の作戦基地として日本本土空襲の拠点となります。

<沖縄の戦い>

激戦地シュガーローフヒル

 アメリカは日本本土攻略の前哨拠点として沖縄攻略を行った。
 4月1日アメリカ軍は沖縄本島に上陸した。
 日本軍は硫黄島同様に本土決戦のための持久防御の構えを取った。
 また上陸を妨害するために特攻戦術が大々的に実施され300隻以上のアメリカ艦艇が損傷した。日本側は1600機にも上る特攻機を投入し3000人以上が亡くなった。
 制海権を失った日本には特攻以外にアメリカの上陸を妨害する術はなかったが、この特攻はアメリカ海軍にとっては脅威であり、沖縄近海に留まることを嫌い、アメリカ陸軍の沖縄攻略を急かすなど全く効果がなかったというわけではないのです。
 また日本海軍で言えば戦艦大和を中心とした海上特攻作戦も行われ、坊ノ岬海戦で戦艦大和は撃沈されますが、空母部隊が大和に対処したことでアメリカの艦隊防空にスキを生じさせ航空特攻作戦を遂行するのを補助する効果はありました。
 最終的に4月ごろに陸軍は持久防御から決戦に転換しアメリカに攻勢をかけたが失敗に終わり5月末に司令部のある首里城が陥落し6月23日に総司令官の牛島中将が自決し日本の組織的抵抗は終了しましたが、終戦までゲリラ的な戦闘は継続されます。

<日本の終戦>

8月14日の御前会議

 1945年8月6日広島に、8月9日に長崎に原子爆弾が投下されます。
 またこの8月9日にソ連が対日参戦しました。
 8月14日に天皇の御聖断により終戦が決し、翌15日正午に日本はポツダム宣言の受諾を宣言しました。
 日本はかくて敗戦したのです。

アナリシス:なぜ日本は制海権を失ったのか

 制海権というテーマに絞ったことで多くの重要な事実を取りこぼしてしまったが、太平洋戦争の主な流れは網羅できたと自負しています。
 ここまでの議論を踏まえたうえで、なぜ日本が制海権を失ったのか最後に検討します。
 
 第一弾作戦の成功は前線飛行場に支援された海軍が敵を捕捉撃滅できたからです。

 第二弾作戦の失敗は、飛行場の支援なしに戦闘を行ったことが原因と指摘しました。

 ガダルカナル島出の失敗は、敵に飛行場を握られたから失敗したと結論しました。

 防衛戦が突破された理由はアメリカの空母機動部隊が決戦場所を自由に選べたからだとしました。

 制海権を巡る議論について回るのは「制空権」です。
 それを提供する飛行場や空母の存在が制海権に大きな影響を及ぼしました。
 制空権なくして制海権は維持できないのです。

 しかし、矛盾することを言います。
 制海権がない場合、制空権は維持できないのです。

 制空権を確保するために進出したガダルカナルの飛行場は、ミッドウェーの敗北によって日本軍の制海権に穴が開いた為に、アメリカ海兵隊によって奪取されたのです。
 そしてそこを拠点にガダルカナルでのアメリカの制空権が確立され、日本海軍は制海権を維持できず撤退しました。
 
 
 制空権がなければ艦隊は留まれず制海権を維持できない。
 制海権がなければ飛行場が維持できず制空権は獲得できない。

 この問題を一挙に解決する兵器が一つだけあります。
 そう、空母です。

空母赤城

 なぜミッドウェーで空母4隻を失ったことが一般に歴史の転換点として語られるのか。
 それは太平洋戦争という、制海権と制空権の確保を巡る戦争において、その両者を一挙に獲得する決定的な兵器を喪失したからなのです。

おわりにかえて

 長い長い記事になりました。
 当初の想定を大幅に超えています。
 制海権というテーマを深堀した結果空母とは何者かという問いに一定の答えを得ることができたのは驚いています。
 これこそ弊サークルの知っているようで語れないというモットーを実現できたと思えて大変うれしいです。

 さて太平洋戦争について語れなかったことも多数あります。
 もしご興味があり体力が残っていたらこちらの記事もお読みください。

・絶対国防圏の設定理由

・日本軍の終戦過程と参謀総長

・日本陸軍の組織図

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参考文献

・瀬戸利春『太平洋島嶼戦 第二次大戦、日米の死闘と水陸両用作戦』作品社、2020年
・谷村康弘編『太平洋海戦詳細帖 1941-1945』ホビージャパン、2014年
・林三郎『太平洋戦争陸戦概史』岩波新書、1951年
・高木惣吉『太平洋海戦史[改訂版] 』、1959年
・戸部良一、寺本義也、鎌田伸一、杉之尾孝生、村井友秀、野中郁次郎『失敗の本質―日本軍の組織論的研究』、1991年
・山本智之『主戦か講和かー帝国陸軍の秘密終戦工作』新潮社、2013年
・屋代宣昭「絶対国防圏下に置ける日本陸海軍の統合―サイパン島における作戦準備を中心として―」『戦史研究年報』2001年、第4号、pp.80-98

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