「見る」だけじゃ勿体ない。

皆さんは映画とか舞台とか、観に行ったりしますか?

僕も暇があれば観に行きます。

今日も友人のダンスのイベントを鑑賞するんですけど(笑)


劇場などに足を運んで常々思うのは、やはり生で観る芸術はいいなと。

より現実味を帯びて僕の五感に直接語りかけてくるんですよね。

テレビやスマホという媒体を通じて作品を観る機会が増えて、より容易にそういう体験に触れることができるようになったと思います。

でも、それって本当に「観ている」んでしょうか。

僕としては、それは文字通り「見ている」だけなんじゃないかと。

テレビの音楽番組で好きなアーティストが演奏していたり、観たかった映画が放送されていたり。僕だって好きなアーティスト、作品は色々ありますからテレビを通じてそれをみることは当然あります。

でも、やっぱりライブで直接声を聴いたり、映画館の大きなスクリーンで観ることの迫力と感動には敵わないわけです。

辞書によれば、「見る」とは物の存在を知覚することで、「観る」とは何かを集中してみることとのこと。

実際、生で芸術をみる時はそれが目的なわけですから他のことを考えることはないはずです。舞台のめちゃくちゃ感動的な場面で「今日の献立は何だろう」とか考える人いないですよね(一般論として!)。

でも、テレビでみる時って色々別のことを考えてしまいませんか?たとえば番組の合間にコマーシャルが流れて、その間にスマホをいじっていたり、はたまた献立のことを考えていたり…。

つまりその時点で「観る」の定義、すなわち集中してみることの条件を満たせていないわけです。

また、テレビ等の媒体を通じてしまうと、その時点で作品はデジタル化されてしまいます。

本来それが持ちうる、人の心を動かす力も一緒に圧縮されてしまうのです。

ここまで書くと、なんか僕がアンチテレビみたいな人になっちゃうかもしれませんが、そういうわけではないです。むしろ一日中テレビ点けてるくらいです笑。

何が言いたいかというと、芸術を直接観る機会をもっと大切にしてほしいということ。

日頃の生活において、プラスの感情とマイナスの感情を天秤にかけてみます。その割合は人それぞれだと思いますが、マイナスの存在感のほうが圧倒的に多いなぁと僕は思います。一つ嫌なことがあると、そればかりが自分の心に棲みつくのです。

芸術は、そんな心の中にプラスな感情を注ぎ足してくれるような、そういう存在なのです。日常から失われがちな興奮、感動を無条件に。たとえそれが架空のものでも。

そういうものを提供してくれる場所は、言わば泉のようなものです。いつでもそんな感情が湧き上がってきて、心を潤してくれる。本当に心が動いた作品は、今でもずっと憶えています。

「観る」とは、ただ視覚的なことだけじゃありません。見て、聞いて、感情が動く…人間の持つ感覚すべてひっくるめて「観る」なんだと思います。

それをすべてストレートに伝えてくる場所、そしてその経験を、皆さんにも大切にしていただきたいなと。生きるヒントをくれる…というと言い過ぎかもしれませんが、何らかの心の動きが必ずあると思います。少なくともプラスの感情が。


劇場や映画館を出た後のあの感覚が、僕は好きです。






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