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#自我を咎めずに見る
イエスと共に見るとはどういうことなのか?なぜイエスと共に見るのか?
価値判断なしに見る、あるがままに見るコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践では、自我を咎めずに見るということをしていきます。
「咎めずに」という意味は、価値判断(ジャッジメント)なしに、ということです。
それは、目の前に映るものをあるがままに、目の前で起こっていることをありのままに見るということです。
そのとき、平安と共に見ることができます。
それをコースでは、「イエスと共に見
問題があるところの同じ場所に、その解決法もある
問題は一つ、解決法も一つ私たちが現実と捉えているこの世界では、様々な問題が形を変えて現れてきます。
次から次へとまるで問題が尽きることがありません。
私たちはその問題を解決することに日々追われていると言うことができます。
人生の大半がそのことで費やされているとさえ言うことができるでしょう。
私たちはそのようにして常に目の前の世界、目の前の人生と戦っているといえます。
コース(奇跡のコー
私たちが修得していくべきワンネスを反映した在り方
すべてを包み込むものに対極はあり得ないコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びと実践において私たちがついやってしまうのが、自我を悪者扱いして、自我を敵とみなしてしまうということです。
いわゆる、自我を避けようとしたり、自我を排除しようとしたり、自我を否定するということをしてしまうということです。
そうするならば、分離の想念をかえって強めることになります。
実際、コースは、自我を否定し
神と神の国を守るためだけに警戒していていなさい!
形態の知覚ほど、目を眩ませるものはない私たちは、「この世界は現実である」「この世界は実在している」と、当たり前のように信じています。
まるで、疑うことすらありません。
というのも、私たちは五感を通してこの世界を知覚しているわけで、まさがそれが幻覚による知覚だとはけっして思えないわけです。
「この世界を知覚している」とは、どういうことか?
というならば、真理、天国とはちがうものを見ていると
深刻になってしまったときの救いの秘密
深刻にならないという実践ではないコース(奇跡のコース/奇跡講座)の実践において私たちがしていくのは、深刻にならないという実践なのではありません。
というのも、私たちはつい、その実践においてなるべく深刻にならないようにしようとします。
コースでしていく実践は、そうではないということです。
むしろ、深刻になろうとしている、あるいは、深刻になりたがている自分の内側の心の動き(精神力動)を認識してい
「リラックスする」「いまここにくつろぐ」という言葉に騙されないように
私たちには学ばなければならないことがある重要なことは、いまここにリラックスすること、いまここにくつろぐこと。
そんなふうにノンデュアリティのティーチャーさんやノンデュアリティのスピーカーさんたちは言います。
でも、そのような実践はほとんど役に立たない、助けにならないといえるでしょう。
というのも、実践してみれば分かることですが、それではうまくいかないからです。
リラックスすればいいと頭で
「真理を幻想に持ち込む」のではなく、「幻想を真理のもとに運ぶ」ということ
幻想を真理のもとに運ぶ「幻想を真理のもとに運ぶ」と「真理を幻想に持ち込む」とは、いったい何のことを言っているのでしょう?
今回はそのことについて書いてみたいと思います。
まず知っておかなければならないのは、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)学習者である私たちがしていく実践は、「幻想を真理のもとに運ぶ」ことをしていくということです。
それは、幻想を直視するということです。
ですが、
自我はどうしたってどうなったとしても自我であることに変わりありません
自分と思っている「自分」について私たちがコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学びはじめるとき、この個人の自分がコースを学んでいると思っています。
ただし、コースの学びが深まっていくある段階において、自分だと思っている「自分」は自我(間違った心)であることを自覚/認識するようになります。
つまり、自分だと思っているその「自分」こそ、本当は実在していない、嘘、ニセモノだと分かってくるという