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問題は認識しないかぎり訂正はなされない
自我を咎めずに見る
私たちはコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)で何を学んでいるのか?
というならば、
自我(の力動論)について学んでいる
と言うことができます。
というのも、私たちは自我についての理解が深まっていくにつれて、自我がしていることがはっきりと認識できるようになっていくからです。
実践においては、私たちはその自我を認識して、その自我を咎めずに見るという訓練をしていくわけです。
自我が問題なのではありません。
自我を信じているということが問題なのです。
ですから、自我を信じていることを自覚/認識していくこと、そして、それを咎めずに見ることが私たちがしていく実践なのだということです。
それをコースでは、「聖霊(イエス)と共に見る」という言い方をします。
そしてそれが、聖霊の教師を選び直すということであり、それが私たちがしていくことなわけです。
ちなみに、それは、文字通りに聖霊を選ぶというような実践なのではないということです。
「聖霊を教師とする」とは、自我を教師とすることをやめることがその実践なのだということを覚えておきましょう。
今すぐ自分自身の教師の職を辞しなさい。(T-12.Ⅴ.8:3)
なぜなら、あなたは間違ったことを教わったからである。(T-28.Ⅰ.7:1)
ここで大事なことは、自我を信じているのを訂正するには、そのためにまず、自分は自我を信じている、というそのことを認識しなければならないということです。
つまり、自我を教師とするのをやめるためには、その前に、自分はすでに自我を教師としている、ということを自覚/認識せねばならないということです。
いわゆる、答えを選択するのではなく、その前に、私たちは問題を認識しなければならないということです。
問題が解決されるように、私が問題を認識できますように。(W-pⅠ.79)
ようするに、問題が何かを認識しなければ、その訂正ができないということです。
言い換えるなら、問題が何かを認識しないかぎり、訂正はなされないのだということです。
それは、理論的にはごく当たり前のことです。
ただし、実践してみれば分かることですが、実際のところ、それがなかなか難しいということが分かります。
問題を認識しようとはせずに、つい、答え(聖霊)のほうばかりにフォーカスが向かってしまうということです。
それによって、真の問題は保持されたままになってしまうのです。
なぜそうしてしまうのか?
というなら、私たちは今や自我と同一化していて、常に、自我の力動で突き動かされているからです。
ですから、私たちには「自我の力動論」についてしっかり理解してくことが求められているわけです。
そのためにコース形而上学の学びと理解が求められているということです。
というのも、それによって、私たちは自我に気づけるようになり、自我からの解放が可能となるからです。
必ず原因に戻っていくこと
私たちにとってのすべての問題の原因は、自我(の分離の思考体系)を信じていること、それが問題なわけです。
ですが、だからといってコースの実践において、ただむやみに「自我を信じるのをやめる」「自我を信じない」ということをしていくのが実践なのではないということです。
自我を否定していくのではないということです。
そうではなく、むしろ、自我を信じたがっている、あるいは、自我を選択したがっているのを自覚/認識することが重要なのだといういうことです。
なにせ、それは私たちの自覚されていない無意識の部分の精神力動なので、学びと訓練がなされていないかぎり、なかなか自覚/認識することは難しいといえます。
でも、それは直視(正視)されないかぎり、その訂正はなされないのです。
そう、私たちが覚えておかなければならない重要なことは、聖霊を選び直すそれ以前に、「自分は自我をすでに信じている」ということを自覚せねば(見つけ出さなければ)、訂正のしようがないということです。
問題の原因が明らかにならなければ、訂正がなされることはありません。
ようするに、自ら自分で信じている(決断した)というところに戻らなければならないということです。
そう、自分に正直になって心の中を直視(正視)するなら、
”自分で自分にこれを行っている”(T-27.Ⅷ.10:1)、、、つまり自分からあえて自我を信じようとしている、、、
そのことが自覚/認識できます。
それらは幻想(虚偽)であるにもかかわらず、それらを信じている、あるいは、信じようとしていることが明らかになります。
それが、すべての原因であり、そこ(原因)でこそ訂正は可能なわけです。
救いの秘密は、「あなたは自分で自分にこれを行なっている」ということだけである。(T-27.VIII.10:1)
「自分で自分にこれ行っている」ということを自覚/認識していくとき、私たちは、自分が無力な存在ではないということに気づいていくようになります。
そして、自分は選び直すことができる、選び直す選択の力がある、ということが思い出されていきます。
つまり、自分は決断し直すことのできる心(決断の主体)なのだと自覚されていくわけです。
そこから自我を眺める(正視する)なら、もはやそこには深刻さはありません。
そこには、この世界とは一切関係ない平安、一切脅かされない平安があります。
「聖霊と共に見る」とはそういうことであり、いわゆる、自我を自覚/認識するということです。
”ここに神の平安がある。” ー『奇跡講座』テキスト序文よりー
いわゆる、そこから見ているときが、コースで「奇跡」と呼んでいるものです。
それが、聖霊(イエス/正しい心)を教師として選び直したということになるわけです。
コースではその瞬間を「聖なる瞬間」と呼んでいます。
なぜなら、その視点とは、時間の超えた「いま」に戻った領域でもあるからです。
最終的には、毎瞬毎瞬を「聖なる瞬間」としていくことが、コースの学習者である私たちがしていく実践(訓練)となります。
それによって、私たちは、時間と空間を超えた「永遠なる今」に本当の自分(真の自己)は居るのだということを認識していくようになります。
そのための手段が「赦し」なわけです。
ようするに、私たちはその「赦し」「奇跡」を通して、時空の外、夢の外に居る真の自己を思い出すことをしているのだということを知っておきましょう。
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